しつこいようだが入試とは手段である。方法論である。制度(しくみ)、内容、方法、いろんなことを変えても、それで教育自体が変わるわけではない。ただ、相互に影響するので、つい同列に論じてしまうのである。

 入試は競争であるから公平公正に行わなければならない。その通りだ。そしてもう一つ、これは実施する側の問題であるが、合理性を追求すべきである。
時間や金や人。これらを際限なく投入すべきでなく、どこかに一線(ライン)を引くことが許されるし、むしろそうすべきである。

 例として解答の方式を考えてみる。
 ①記号選択による解答
 ②語句・用語等、単語による解答
 ③文章による解答
 理解の深さを確かめるには、①より②、②より③の方が好ましい。ではなぜオール③にしないのか。試験時間がおそらく1時間や2時間では足らず、加えて採点にかかるコスト(時間・人・金)が膨大になるからだ。この中には、採点のブレや採点ミスを減らすための費用も含まれる。そこで、「①50%、②30%、③20%」という辺りに妥協点を設ける。合理性の追求というのはこのことだ。

 もう一つ。出題内容についても考えてみる。
 英語四技能が話題になっているが、英語だろうが日本語だろうが、「読めて、書けて、聞き取れて、話せれば」、それがいいに決まっている。
 では、入試でそれら全部を確かめた方がいいかと言うと、そこは違う。と私は思う。やれればやるが、時間がかかるとか金がかかるという理由でやらないという判断を下すことも許されるのではないか。
 とりあえず、語彙力と文法基礎力のある受験生を合格させれば、入学後にリスニング力もスピーキング力も伸ばしてやれる。そういう考えだってあっていいし、その場合、入試ではあまり面倒なことはやらないほうがいい。これも合理性の追求である。

 仮に「英語を話せない」ということが教育上の大問題だと言うなら、大量に外国人を雇うとか、大量に海外留学させるとかすれば、簡単に解決できるわけだ。桁違いの金はかかるが。でも、それをしないで入試で解決しようとするから話がおかしくなる。いや、解決できるという幻想を振り撒くから質が悪い。
 もちろん、頭の良い官僚たちが、こんな簡単な理屈を分かっていないはずはなく、改革のポーズをとっているだけだろう。

 学校の先生たちの中に、会話力が伸びないのは幼少時から学んでいないからだとか、入試でやらないからだと考えている人います?
 動機付けの一つとして、入試科目にあるとか入試問題に含まれるというのはあるかもしれないが、そんなのに頼っているようじゃ一人前の先生とは言えない。少なくとも私の周りにはそんな情けない教員はいない。
 ただ、場所がない、道具がない、人が足りない、それを増やすだけの金がないと嘆いている人はいるね。で、これって入試改革では解決できないと思うよ。