最近気になっているフレーズに「寄り添う」というのがある。たとえば、埼玉県・小松弥生教育長が、川口市立中学3年生がいじめを受け、自殺未遂を図っていた問題について、「生徒や保護者に寄り添い、生徒の立場に立って説明する必要がある」と述べている。こういう使い方をするのである。

 先生は生徒に寄り添い、医者は患者に寄り添い、政治は国民に寄り添う。
 つまり、相手の立場や相手の身になって考えるってことだ。
 結構なことじゃないか。

 だが、政治家や役人が言い訳に用いる定番フレーズみたいになってくると、あまりいい気分ではない。と言うより、むしろ不快である。

 「寄り添う」とは、相手の隣に立つことだ。相手と同じ視線でものを見ることになる。すると自分自身をもう一人の自分が客観的に見ることになるから、ものごとの見え方は、今までと違ったものになる。そういう効果が期待できるから、「寄り添う」ことに意味はある。

 その一方で、いかにも耳障りの良い「寄り添う」という言葉には、どこか胡散臭さも感じるのである。

 いじめ問題で、親が子供に「寄り添う」のは、まあ感覚としては分かる。
 しかし、先生が「寄り添う」っていうのはどうなのか。
 ちょっと言葉遊びのようになってしまうが、私が先生だったら、「寄り添う」のではなく、前に立って頑丈な盾となるだろう。あるいは、後ろからガッチリと背中を支えるだろう。時には正面から抱いてやるかもしれない。
 どっちにしたって、「寄り添う」みたいな生温かいものではない。私にとって守るというのはそういうことだ。

 「寄り添う」ことを完全否定するものではないが、寄り添うだけでは解決できない問題だってあるはずだ。安易に「寄り添う」を連発するのは止めてもらいたい。

 それにしても、もう少し他人に「寄り添う」ことが出来たら、私の人生は違ったものになっていただろうね。「寄り添う」ことの出来ない私には、誰も寄り添ってくれないんだよ。自業自得だけど。