毎週月曜日はブレストの日。ブレストとはブレーンストーミング(Brainstorming)」の略でアレックス・F・オズボーンによって考案された会議の方式。
 私は週1回、ボケ防止兼暇つぶし目的で「NPO埼玉教育ネット」理事長・野口繁一氏が主宰するテレビ会議に参加しているが、特に何かを議決するというわけではないので、私の中ではブレストの位置づけ。
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 今日のブレストで。某塾長から発せられた問い。
 「塾(の先生)って何だろう。その裏返しとして学校とは何だろう」。
 時間の関係でその場では答えられなかったので、ここで回答しておこう。

【回答】
 はい。いい問いかけです。
 が、この問いには正解がありません。最近よく言われる「正解のない問い」というやつです。

 とは言え、考えてもどうせ正解がないからと思考停止すると、塾長としても人間としても成長がありません。自ら問いを発した以上、さしあたりの答えを導こうではありませんか。

 ここで、さしあたりと限定するのは、あなたの知識やキャリア、年齢、立場は不変ではありませんし、世の中も刻々と変化するからです。それ故、今日の正解は必ずしも明日の正解であるとは限りません。だから、さしあたりなのです。

◆受益者と費用負担者が一致する関係と、一致しない関係
 学校は(私立学校も含めて)、教育という公共サービスを提供する主体です。受益者は児童生徒及び保護者です。
 通常サービスの提供を受ける場合、その対価を支払わなくてはなりませんが、公共サービスの特徴は、サービスの提供を受ける者(受益者)と、費用の負担者が必ずしも一致しないところにあります。サービスそのものは児童生徒及び保護者が受けているのですが、費用は税金という形で、世の中全体で負担しているわけです。

 すると、どういうことになるか。
 学校は、直接的なサービスの受益者である児童生徒及び保護者の要求に応え、満足(効用)を提供しなければなりませんが、一方で、費用負担者である納税者(つまりは国民、県民、市民)の要求にも応えなければなりません。
 ここが、受益者と費用負担者が一致している塾との構造上の大きな違いです。

 どちらがいいかとか、どちらが大変かという話ではありません。
 学校は、受益者と費用負担者両方の要求に応えなければなりません。塾は受益者の要求にだけ応えていればいいのですが、同時に費用負担者でもありますから、その要求は強く、ハイレベルなものになります。時には激しく自己本位なものになります。学校にもモンペ(モンスターペアレント)はいますが、辞めるという行動までは取りません。

◆互いに選べる関係と、選べない関係
 高校になると若干様子は変わりますが、義務教育である小中学校では、学校側はお客を選ぶことができません。同時にお客も学校を選ぶことはできません。偶然の出会いです。運命です。
 互いに選んだ覚えのない両者が、良好な関係を築いて行くのは非常に大変です。おそらく、塾の先生が経験したことのない苦労です。
 塾は、互いに選ぶことができますが、一方で選ばないこともできます。しかし、選んだ以上、つまり、すすんで引き受けた以上、要求に応える責任は学校の比ではありません。このような責任の重さは、学校の先生が経験したことのないものです。

 
◆教育の目的や内容の違い
 学校が教育という言葉を使う場合、その意味は「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(教育基本法)ものと考えます。

 ついでですが、教育基本法第10条には「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって…」とあります。一番は学校じゃないんだよということを親に自覚してもらう必要があります。

 戻ります。
 塾の教育は、「人格の完成」や「心身ともに健康な国民の育成」を目指すものではありません。学力の向上及びその結果としての志望校合格を目指すものです。
 挨拶や礼儀、人としてのあり方やものごとの考え方なども指導しますが、すべては最終目的である学力向上や志望校合格を実現するためのものです。

 教育という一つの言葉でくくられることが多いのですが、両者の目的は異なります。
 学校にとって、学力向上や志望校合格は、数ある目標の一つに過ぎませんが、塾はその一点に絞られます。なおかつ、それが達成されたかどうかは客観的物差しで測定が可能です。学校にはない塾の厳しさがここにあります。

◆補完ではなく、付加である
 学校では、児童生徒及び保護者それぞれの要求に完全に応えることはできません。最大公約数的になるのは止むをえません。できるだけ多くの人の要求に応えようとして、結果、誰の要求にも応えられないというジレンマに陥りがちです。
 不備があり、不満が出るのは構造上の問題です。いわば宿命です。

 そこで、学校の足らざる部分を補う存在として塾がクローズアップされるわけですが、個人的には、こうした補完的関係にもろ手を挙げて賛成するわけには行きません。
 何となく、下請け的なイメージになりませんか? 私だけの感覚かもしれないですが。

 極端な言い方をすれば、学校の足らざる部分を補完するなら、その費用は学校に負担してもらわなければなりません。構造的には学校教育の中に組み込まれなくてはならないという話にもなるでしょう。

 公共サービスたる学校教育にはない新たな価値を創造し提供するのが塾の役割です。
 ですから、補完ではなく付加なのです。
 学校では不十分になりがちなサービスを提供するのは補完です。
 学校ではやろうとしてもできない、あるいはやらなくていい、けれども児童生徒及び保護者は要求している(潜在的なものも含めて)、そういうサービスを提供するのは付加です。

 補完も重要ですし、それも至難なのですが、塾の先生としてのプライドとして、補完では終わらせないぞという心意気を持ってもらいたいと思います。

 私は皆さんより長く生きてきた人間です。その経験からして、人生において、心から「先生(師)」と呼べる人が大勢いたほうが幸せだと思っています。
 学校にもいい先生がいて、塾にもいい先生がいたほうが子供たちもハッピーなんじゃないですか。

 以上。思いつきで書いたので不備があり、不満も多かろうが、「塾って何だろう、学校って何だろう」の問いに対する、今日のお答えである。明日はまた別解になっているかもしれない。