終戦記念日というと思い出されるのが「すいとん」なのだが、皆さんは「すいとん」をご存知か。
 私が幼いころ、たぶん小学生だったと記憶しているが、母はこの日には決まって子供たちに「すいとん」を作ったのである。小麦粉を練って団子状にし、それを味噌汁の中に入れて食う。旨いとは思わなかったが不味くもなかった。

 後に分かったことだが「すいとん」は古くからある日本料理(郷土料理)だ。試しにクックパッドを調べてみたら、すいとん汁のレシピがたくさん出ている。
 が、母の作ったそれは戦時中の代用食としての「すいとん」だ。
 大正14年生まれの母は、年齢が昭和の年号と一致する。昭和16年の真珠湾攻撃のときは16歳、昭和20年の終戦のときは20歳という具合だ。青春時代は丸々戦争と共にあったわけだから、その記憶は確かだ。

 当時の「すいとん」は味がしなかったと母は言う。小麦粉の質は悪いし、出汁もとらず、ただお湯に浮かべるだけならそうだろう。開戦時はそうでもなかったが、終戦間際になると食糧難は地方都市にも及んでいた。米・味噌・醤油・砂糖などすべてが不足していた。そこで、代用食「すいとん」なのである。

 母は子供たちに「すいとん」を食べさせながら当時を語った。
 母の実家は浦和の農家だった。庭の片隅に半分くらいは埋まっていたがそれでも結構大きな穴があった。防空壕の跡だ。終戦の年には地方都市も空襲を受け、埼玉県南部でも川口・蕨・戸田、そして浦和にもB29が襲来した。「あの時は生きた心地がしなかった」と何度も聞かされた。
 母の兄(私にとっては叔父)は動員され戦地に赴いたが、復員してきたときには別人になっていたという話もよく聞かされた。明るく社交的だった兄が、無口で気難しい人間に変わってしまいショックを受けたという。B29も恐ろしかったが、戦争とは一人の人間をここまで変えてしまうのかと、そちらのほうが恐かったそうだ。

 そんな昔話を聞きながら「すいとん」を食うのが、私が子供のころのわが家の終戦記念日だった。