今日は仕事の関係で埼玉県内某私立高校で長い時間を過ごした。
 公立高校に比べれば、はるかに恵まれた環境(施設設備)ではあるが、さすがにできて半世紀近くにもなると、あちらこちらにガタが来ている。

 さて今日は、その施設設備にまつわる話である。

 高校授業料の実質無償化が全国的に定着しつつある今、日本の教育現場はかつてない地殻変動の中にある。
 制度の周知が進んだ次年度以降、この流れはさらに加速し、「経済的理由で公立を選ぶ」という大前提は過去のものとなるだろう。

 そして、ここで起きるのは、公立・私立という枠組みを超えた、学校の「二極化」である。
 行政側は定員割れを口実に学校再編を断行し、生き残る学校と退場を余儀なくされる学校が鮮明に分かれると予想されるが、この「教育の自由競争時代」において、公立高校が抱く危機感の正体と、その決定的な「勘違い」について考えてみたいと思う。

◆「価格」が消えた後の純粋クオリティ競争
 授業料という最大のコストが選択肢から消えたとき、保護者や受験生が「顧客」として商品を比較する基準は、純粋に「クオリティ」へと移行するはずだ。
 これは市場経済において、価格競争が限界に達した後に「サービス」や「付加価値」の勝負になるのと全く同じ構造だ。

 当然、世間では「そうは言っても私立は入学金や施設維持費が高い」という声も上がるだろう。しかし、月々の固定費である授業料が「実質ゼロ」になる心理的・経済的インパクトは、それらの初期費用を補って余りあるものだ。

 こうした状況下で、多くの公立高校の関係者が口を揃えて嘆くのが「施設の劣勢」である。「私立のような豪華なカフェテリアや全天候型グラウンド、最新のICT設備がないから、生徒が流れてしまうのだ」と。
 しかし、果たしてそうだろうか。
 敗因をハード面の差に求めるのは、あまりに安易な分析と言わざるを得ない。

◆私立の真の強みはソフト面にある
 確かに私立高校の施設は立派だ。
 ごく一部、私立を凌駕する施設設備を擁する学校があるが例外だ。

 さてここで、われわれが直視すべきは、私立高校がこれまで勝ち得てきた信頼の源泉が「豪華な校舎」だったのか、という点である。

 それもあるが、実際に私立を選んだ保護者の多くが評価しているのは、きめ細やかな生活指導、一人ひとりの進路に寄り添う徹底した進路指導、そして時代の変化に即応するカリキュラムの柔軟性といった「ソフト面」のクオリティではないだろうか。
 私立高校側も、施設を「売りの一つ」とは考えていても、それだけで勝負しようとは考えていない。
 彼らは、施設がどれほど立派でも、中身(教育の質)が伴わなければ顧客に見放されることを、民間組織として本能的に理解しているからである。

 一方で、公立高校はどうか。
 「施設が古いから負けている」とハード面の劣勢を言い訳にしているうちは、私立にとってこれほど御しやすい相手はない。なぜなら、その発想自体が「教育の質で勝負する」という土俵から逃げている証左だからだ。

◆公立高校に突きつけられた「ソフト」の再定義
 費用が同等になったとき、人々は「施設が良い方」を選ぶ層と、「教育内容が良い方」を選ぶ層に二分されるだろう。公立高校が活路を見出すべきは、明らかに後者である。

 公立には公立の、私立には真似できない「公の教育」としての質があるはずだ。
 地域社会との深い連携、多様な背景を持つ生徒たちが混ざり合う環境、あるいは特定の学問領域における専門性の追求など、ソフト面で磨ける要素はいくらでもある。

 もし公立高校が「施設さえ新しければ勝てる」と本気で信じ、ハードの改修ばかりを求めているのであれば、その間に私立はさらに教育内容を研ぎ澄ませ、差を広げて行くだろう。公立側が施設のビハインドを嘆いている時間は、私立側にとっては「教育の質の向上に邁進できるボーナスタイム」でしかないのだ。

◆ハードの言い訳を捨てた、その先に
 高校授業料無償化は、公立高校にとって「教育の真価」を問う試金石である。
 施設設備の豪華さという「目に見える差」にとらわれ、生活指導や学習支援・進路指導といった「目に見えない質」の向上を怠るならば、公立離れに歯止めがかかることはないだろう。

 「施設がボロいから生徒が来ない」のではなく、「施設のハンデを跳ね返すほどの教育的魅力がない」から生徒が来ないのだ。
 この厳しい現実を受け入れ、ソフト面のアップデートを最優先課題に据えること。
 それが、次世代に選ばれる学校として生き残る唯一の道である。