同級生から久々の便り。孫が高校受験だという。70を過ぎれば、そうなるだろう。
 友は言う。「いやあ、ビックリしたよ。聞いたことない高校がたくさんあって、しかも、そういう学校がみんな難しいんだよね」
 親世代とも違っているんだから、ジジイババアの時代のことなんて参考になるわけがない。

 友は続ける。「まあ、学校選びは本人と親(自分にとっては子)に任せるしかないな」
 うん、それでいい。
 余計な口出しはしないことだ。
 親が30年くらい前の経験を持ち出して、ああだこうだと言うのさえ相当にピント外れなんだ。
 ましてジジイたちの半世紀以上前の経験なんて、屁のツッパリにもならん。
 (この、屁のツッパリっていう言い方なんだが、昔はよく聞かれた。何の役にも立たないという意味だが、これも最近は使われないね)

 孫の件はこれで落着である。

 その後、しばし思い出話に耽る。
 なにせ未来がそれほど残されていない身である。
 あれをしたい、これをしたいと言っても、明日にはぽっくりあの世行きかもしれないのだ。
 話はどうしたって、昔に遡る。

 で、昔話だが、同じ経験を話しているのだが、微妙に話が食い違う。
 事実は一つと思うが、記憶のされ方に違いがあるようだ。
 こっちが、よくそんなこと覚えているなと驚けば、向こうもよくそこまで覚えているなと呆れる。

 我々は、どうも自分にとって都合の良いことばかり覚えているようだ。
 というか、自分にとって良い思い出だけを抽出するクセがあるようだ。
 まあ、嫌なことは忘れてしまった方が精神的には良いのかもしれない。
 自分の脳内で、古き良き時代として振り返っている分には迷惑とはならんだろう。

 だが、なぜか人はこれを他人に語りたくなる。
 その際、良い思い出だけを抽出するだけならまだしも、その思い出にさらに補正をかけるのだ
 意識か、無意識か、話を思いっきり「盛る」のである。
 こいつは、語っている本人にとってはすこぶる快感であろうが、聞かされる側はたまったものではない。
 
 経験談とは、真実か。
 いや、そうではない。
 自分の中で事実と認識され、それに相当な脚色を加えた話。
 それが経験談というものの正体である。
 つまり、経験談などというものは、そのほとんどが作り話、創作である。
 本人その気はなくても、聞く方からすれば立派な自慢話。

 年寄りの経験談が役に立たないのは、時代が違うからではない
 それもあるかもしれないが、大半が創作であるからだ
 最初は自分でも少し盛り過ぎかとか、美化し過ぎかと思っても、語り続けるうちに脳内記憶に上書きされ、いつしか自分の中で真実となる。

 どうしてもと言われれば、経験談と称する創作話をしてやってもいいが、自ら語ってやろうなどというのは迷惑千万。

 でも、そうは言いつつ、やっぱり語りたくなるんだよな。
 この衝動をどう抑えるか。
 私にとって大きな課題である。