みんな忘れてると思うが、今日は「敬老の日」である。
 が、かく言う私も三連休の最終日としか思っていないのである。

 そもそも72歳の私は、敬われる対象なのだろうか。
 国民の祝日に関する法律には、次のようにある。 
 「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」

 社会につくしてきたかどうかは判断が難しいところだが、問題は「長寿を祝う」の部分だ。
 以下、総務省の発表。
 65歳以上の高齢者は3623万人で総人口の29.1%。
 80歳以上は1259万人で総人口の10.1%。
 この数字を見る限り、72歳の私は高齢ではあるが、長寿とまでは言えず、祝われる方ではなく祝う方であるというのが、とりあえずの結論だ。

 総務省は17日、働く高齢者の数についても発表している。

 高齢者とは65歳以上の人である。
 働く高齢者の数は過去最多の912万人で、就業率は25.2%である。
 年齢別では、
 65歳から69歳は50.8%、70歳から74歳は33.5%である。

 つまり、65歳から69歳の二人に一人、70歳から74歳の三人に一人は職に就いている。
 この割合は、今後も増加するだろうと総務省は予測している。

 私は長寿の域には達していないが、すでに立派な高齢者であり、3年後には後期高齢者と呼ばれるようになる。
 ただし、そのうち70歳以上が前期高齢者で、80歳以上が後期高齢者と呼ばれるようになるかもしれず、今のところはという限定つきだ。

 こうした数字を見て、「一生働き続けなければならないのか」と落胆し、場合によっては憤慨する人もいるかもしれない。
 だが、私自身は何だかんだで好きなことや、まあまあ得意なことを、誰からも強制されず自分の意志で続けているので、一生働き続ける人生で構わないと思っている。
 私にとっての仕事は、どこかに雇われるとか、誰かに給料をもらうというのではなく、自分で稼ぐことだ。
 こうした立場は、突然仕事が無くなり資金が回らなくなる危険と常に背中合わせであるが、上司にへつらったり、同僚に気を使ったり、部下に悩まされたりすることはない。
 つまり、人間関係のストレスからは完全に解放されているわけだ。

 理想を言えば、人間関係のストレスからフリーで、かつ身分や給料が保障されているのが一番なのだが、そう上手くは行かないので、身分や給料の不安定と引き換えに人間関係のストレスからの解放を選んだのである。
 むろん、どちらを選ぶかは自由だ。
 また、これといった仕事を持たず、と言うかむしろやらず、悠々自適の余生を送れるならば、それもよろしい。
 自分にできないからといって、他人の生き方にケチをつけるのは性に合わない。

 これから「老人界(高齢者界)」デビューをしようという「中年界」の皆さんに一つアドバイスをしておこう。
 頭の衰えと体の衰えは、どっちが早いかということついてだ。
 どちらも衰えるに決まっているので、それは受け入れるしかない。
 せいぜい、衰えのスピードを鈍化させるくらいしかできない。

 問題は自覚だ。
 体力の衰えは数値でも確かめられるし、自覚しやすい。
 だが、頭の衰えは自覚しにくい。
 なぜ自覚しにくいかと言えば、衰えた頭で考え、衰えた頭で診断しているからだ。
 「いやあ、体力が衰えちゃって」と言っている年寄りはいても、「近頃どんどんバ〇になっちゃって」と言っている年寄りはいないだろう。
 それが何よりの証拠だ。

 恐いのは自覚可能な体力の衰えではなく、無自覚の頭や精神の衰えなのだ。
 これは自分でも気が付かないし、周囲の人も敬老精神を発揮して、指摘してくれない。
 体力の衰えを鈍化させる方法は何となく分ってきたが、頭や精神の衰えを鈍化させる方法が分からない。
 誰か教えてくれないか。

 って、このブログ読者はほとんど年下なので、それは無理か。

 以上、「敬老の日」にちなんだ老人の主張である。