今日の選抜高校野球1回戦の試合は、「九州国際大付属(福岡)VS神戸国際大付属(兵庫)」。
国際対決だ。
国際という名称は見慣れたものであるが、こうして対戦カードとして並ぶと、なぜか一言、言ってみたくなる。
ということで三連休最後のネタは「国際」である。
◆「国際」ブランドの誕生と増殖
校名に「国際」が急増したのは、1980年代後半から90年代にかけてのことである。
バブル経済の絶頂期、日本企業が世界を席巻し、「国際感覚」という言葉がビジネスマンの必須科目となった時代だ。
それ以前にも国際と名の付く学校はあった。代表的なのが国際基督教大学(ICU)であるが、これも戦後生まれの大学だ。
「国際」を名乗る学校が増えたのは、「少子化」が顕在化してきたことと無関係ではないだろう。
と言うより、募集危機を回避するためのイメージ戦略として採用されたと言っていい。
今日の対戦校である九州国際大付は「八幡大学附属」、神戸国際大付は「八代学院」という前身を持つ。両校とも1990年前後に改称している。地域密着型の名称から、より広域でモダンな印象を与える「国際」への転換は、当時の生存戦略として極めて合理的ではあった。
◆埼玉県における「国際」の現在地
埼玉県において、校名に「国際」を冠するのは、県立和光国際高校、さいたま市立大宮国際中等教育学校、そして私立の山村国際高校、国際学院高校である。
和光国際は、創立以来、県内でも有数の人気校としてその地位を確立している。大宮国際もまた、県内初の中等教育学校として、IB(国際バカロレア)プログラムを軸に着実な成果を上げ、中学入試市場でも高い存在感を示している。
山村国際も「山村第二女子」から改名、共学化を経て順調に推移している。
国際学院は一時期、附属中学校を設置して中高一貫化を企図したが、生徒募集が振るわず、募集停止に至った。高校は堅調であるものの、この事実は、「国際」という看板さえ掲げれば生徒が集まるという「魔法」が、すでに解け始めていることを物語っていると言えよう。
◆令和の再編と「今さら感」
興味深いのは、「国際」ブームが一巡したかに見える今、埼玉県立高校の再編整備計画において、再びこの名称が脚光を浴びていることだ。
令和8年度(2026年度)から、和光国際高校の外国語科は「国際科」に改編される。岩槻高校の国際文化科は「国際教養科」となり、秩父高校には新たに「国際教養科」が設置される。
正直に言えば、この計画を耳にした際、私は一抹の「今さら感」を拭えなかった。
秋田の国際教養大学(AIU)の成功以来、早稲田、上智、さらには千葉大学といった難関校が「国際教養学部」を新設し、ブランド化に成功したのは随分前の話だ。今、高校の現場で再び「国際教養」を旗印に掲げることは、周回遅れのランナーがラストスパートをかけているようで、少しばかり危うさを感じてしまうのである。
では、なぜ今さら「国際教養」なのか。
おそらく、これに代わる新しいコンセプト、例えば「共創Co-Creation)」や「越境(Borderless)」や「リベラルアーツ(Liberal Arts)」といった言葉を掲げるには、まだ社会の側の理解が追いついていないという、行政や学校側の慎重な判断もあるのだろう。
「国際」という看板を掲げながら、数年でそれを外してしまった学校も存在する。
それは、中身が伴わなかったことへの反省かもしれないし、あるいは「国際=英語特化」という世間の狭いステレオタイプに縛られることを嫌った結果かもしれない。
今、改めて「国際教養」を名乗る埼玉の高校に求められているのは、単なる語学学習の強化ではないはずだ。
その目標は、異質な他者と対話し、正解のない問いに対して、自らの「教養」を総動員して立ち向かうタフさを育むことである。
(そんなことは当の学校が一番良く分かっていると思うが・・・)
令和8年度からスタートする新学科が、数年後には「あえて国際と名乗る必要すらなくなっていた」と言わしめるほどの教育を展開してほしい。
「国際的であること」がもはや看板に掲げるような特別なことではなく、教室の中の「当たり前の空気」となったとき、日本の教育はようやく、バブル期の幻想から脱却し、真のグローバル化へと踏み出せるのではないだろうか。

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