惰眠を貪る(だみんをむさぼる)と言えばいいのか。あるいはまた、馬齢を重ねる(ばれいをかさねる)と言うべきか。亡くなった中村哲医師の生涯を知るにつけ、己の人生の不甲斐なさに恥じ入るばかりだ。

 中村さんは福岡県立福岡高等学校を出て、九州大学医学部に進んだ。いわゆるエリートコースだ。
 38歳のとき、パキスタン・ペシャワールに赴任し、以後、数十年にわたり現地での医療活動に従事する。
 ここまでで十分に偉大だ。簡単に真似のできることはない。
 不肖私も十数年前、かの地を訪れたことがあるが、あの貧しく、不便で、不衛生で、かつ危険この上ない街で暮らすことなど想像すらできない。

 私の最大の驚きは、人々を救うためには「100人の医師より1本の用水路」と思い立ち、白衣を捨て土木屋に転身してしまったことである。
 なるほど、と思うのは、結果を知った上での納得だ。私にはどう頭をひねっても、この発想に至ることはできない。病院を作るとか、多くの医師を養成するために学校を作るとか、もしかしたらそこまでは思いつくかもしれない。

 思いついたことを実行し、実現する。しかも、広大な砂漠の緑地化という国家プロジェクト級の大事業を、だ。
 この鋼の意志。

 中村医師は一昨年、土木学会技術賞というものを受賞している。清水とか鹿島とか大林といったゼネコンに交じって個人の名前がある。
 中村氏は、土木を独学で一から学んだ。詳しくは分からないが、すでに50代に達していただろうから、これもまた驚異的だ。
 さらにまた、現地にもっとも適した工法として、最新、最先端を求めず江戸時代から伝わる伝統工法を参考にした。どうしたらこのような発想ができるのか。

 というわけで、調べれば調べるほど驚きの連続なのである。
 今日私が見たものは、一つはペシャワール会ホームページにある「中村医師メール報告(現地より)」、もう一つは、YouTubeで見られる「武器ではなく命の水を 医師中村哲とアフガニスタン」というドキュメントだ。
 中村医師の生き方と業績は教材になる。