ちょっと油断していると次々と新しい言葉が生まれてくる。ごく最近では「親ガチャ」。
 いわばネットスラングであり、一時の流行であって言葉自体はすぐに廃れると思うので、知らなくていいし、覚えなくていい。
 が、これが意味することの本質的な部分は前からあったし、これからも続くだろう。

 ガチャというのは一昔前のガチャガチャ。今は、ソーシャルゲームでキャラクターやアイテムを抽選で入手する方法を「ガチャ」といい、何が出てくるか分からない。そこから、どんな親やどんな境遇の下に生まれるかは運次第といった意味で「親ガチャ」という言葉が生まれたらしい。
 たしかに、子供は親を選べない。
 もっとも、親の方も、どんな子が生まれてくるかは分からないわけで、そっちが「親ガチャ」なら、こちっも「子ガチャ」なんだが、それはいい。

 親の経済格差や教養格差が家庭の教育格差につながり、それが子供の能力格差を生む。
 これには否定できない部分はある。
 ただ、たぶん日本だけのものではなく、世界を見渡せば、日本はまだマシな方だろう。

 この問題については、「親ガチャという言葉で自分の境遇を親のせいにするのはよくない」といった自己責任論もみられる。
 一理あるが、かつて教育に関わった者からすれば、そのような考えしか出来ない人間に育てられてしまったこと自体が本人も自覚していない親ガチャ問題なのである。
 
 先生「お子さんはこれが好きだし、向いていると思うので、本人の希望を尊重したらどうですか」
 親 「いいえ、我が家には我が家の方針があります。先生は他人なんだから余計な口出しやめてください。子供の将来は親の私が決めます」

 そうか、余計な口出しか。
 たしかに赤の他人だよ。
 でも、それがこっちの仕事なんでね。
 親ガチャを乗り越えて、格差を次世代に持ち込こさないために教育という仕事をやってるんですよ。
 そっちこそ少し黙っててくんないかな。

 といったことは、長いこと先生をやっていれば、何度も経験する。
 親自身にその自覚はないが、親が子供の成長を妨げているケースだ。
 学歴にコンプレックスを持っている親が、異常に学歴にこだわったりするのも広い意味での親ガチャ問題と言えるかもしれない。

 親の経済格差→家庭の教育格差→子の能力格差 
 この不幸なサイクルを断ち切るには、経済政策や社会政策や教育政策の力が必要だ。
 家が貧しくても、子供が不自由なく学べる制度が確立されなければならない。

 だが、本人の強い意志があり、先生の後押しがあり、社会制度の恩恵を受けながら生まれながらの格差を乗り越えた子が成長し親となったら、それで不幸なサイクルは断ち切れるかというと、今度は自身の成功体験を子に押し付け、またもや別の親ガチャを引き起こすこともあるわけである。
 親ガチャ問題の根は深い。

 もう少し勉強してからまた書く。