3月10日、東京都教育委員会は、「都立高等学校等における校則等に関する取組状況について」報告した。
 それによると、昨年4月段階では13課程が「下着の色の指定」を実施していたほか、「ツーブロック禁止」が24課程、「髪を黒に染めさせる」が7課程、「『高校生らしく』など曖昧で誤解を招く指導」が95過程で行われていたが、昨年12月段階では、これらの校則が廃止されていたという内容だ。

 校則に関する調査は埼玉県教育委員会でも実施している。
 昨年(2021)10月のことである。
 これについては、本ブログでも触れた。
 「埼玉県教委、校則点検についての調査結果を発表」 
 また、校則に関する個人的な考えの一端は1年ほど前に書いた。
 「ブラック校則を本当に無くしたいなら、今のやり方ではダメだ」

 その上で、さらに個人的感想を述べておこう。
 生徒が主体となり、校則改正に取り組むのはいい。
 18歳で選挙権が与えられる時代だ。
 そういう経験をしておくことは悪くない。

 問題なのは、一部の校則に対しブラックという汚名を着せ、校則の存在そのものを否定的に論じる風潮になることだ。
 校則改正に熱心な方々も、意味不明な校則や、理不尽な校則を否定しているのであって、校則自体あってはならぬものとまでは言っていないと思う。
 だが、ブラックという言葉は、しばしば思考停止をもたらすので、注意が必要だ。

 生徒たちが、自分たちにとって気に入らない決まりは変えていいのだ。
 また、自分たちの決まりは自分たちで決めていいのだ。
 そう考えるようになったとしたら、それは大きな間違いだ。
 
 先生の指導の下、親の保護の下、一定の範囲内で校則の作成や改正に関わることができる。
 つまり、将来世の中に出て行くにあたり、そのシミュレーションができるということなのだ。
 
 今、「生徒たちが自分たちで考え、主体的に取り組み、校則を改正しました」が称賛される時代だ。
 むろん、結構なことであり、それを否定する先生はいないだろう。
 が、学校が教育の場である以上、そこに教育的な意味がなければならない。
 別の言い方をすれば、そうした活動を通じて成長が図られなくてはならない。

 流行だからとか、学校イメージが良くなりそうだからとか、その程度の理由で取り組んではならない。
 まあ、ちゃんとカリキュラム(指導計画)を作ってやれ、ということだ。

 校則や生徒の決まりのおおもとは、学校の教育目標や教育方針である。
 ここは生徒の都合では動かせない部分である。
 生徒にはそのあたりから学んでもらおう。
 そして、「あなたがたは、何のためにこの学校に来たのか」と、自身の目標・目的を問おう。

 その上で、目標・目的達成のために障害となるルールは変えてもいいことにしよう。
 ただし、学校は集団生活なので、お互い他者の目標・目的の実現を阻害するようであってはならない。

 ルール作りは難しい。
 だが、難しいからこそ、そこに教育的意義もあるというものだ。