中途半端な学校には、中途半端な生徒しか集まらないから、中途半端な結果しか出ない。
 これは。自称「中途ハンパー」の私が言うのだから、ほぼ間違いない。
 
 いよいよ生徒募集戦線も佳境に入る。
 埼玉県の高校受験生は、10月1日現在で集計される進路希望状況調査に、どこか一つの学校を書いている頃だ。
 結果が公表されるのは約1か月後で、ここで初めて倍率というものを目にする。
 それで驚いたり、喜んだり、泣いたりしながら、ちょっとは本気出して志望校というものを考え始める。

 まあ、そういう意味では学校としても勝負はこれからと言える。

◆文武両道の呪縛
 私は埼玉県有数の学校ホームページウォッチャーである(自称)。
 県内全校閲覧を、もう10回以上はやっているだろう。

 その時その時の流行があるから、目にするワードは時代を象徴するものが多い。
 ICT、グローバル、探究・・・
 そんな中、時代を超えて愛されているワードの一つが「文武両道」というやつだ。
 校訓に入っている学校もある。

 で、そのこと自体は決して悪いこととは思わないが、生徒募集マーケティング的にはどうかなと少しばかり疑問を感じている。
 一つには、みんなが使い過ぎて、特色化や差別化になりにくくなっているということがある。
 他校との違いを打ち出すなら「文一筋」とか「武一筋」、「文強武弱」とか「文弱武強」、あるいはまた「文重武軽」とか「文軽武重」の方がいいんじゃないかと思ったりもする。

 世は正にサステナビリティ(多様性)の時代。
 みんながみんな「文武両道」を求めることはあるまい。

 ここは一つ、昭和から引き継がれてきた「文武両道」の呪縛から自由になろうではないか。
 さもなければ、新しい時代の「文武両道」のあり方を提示しようではないかというのが本日の提案である。

◆時間差「文武両道」
 70年以上生きてきて、人生最大の悔いは何か。
 まあ、悔いることばかりで、選ぶのが大変なのだが、輝く第一位はすべてが中途半端であったということだ。
 私は老い先短い身であるのでいいが、若い人達には同じ轍を踏んで欲しくない。

 「中途ハンパー」への道を歩まないための一つの方法は、時間差攻撃である。

 二兎を追えるだけのポテンシャルがある人は、同時に二兎を追ってもいい。
 だが、大概の人はそこまでの資質の持ち合わせはなく、一兎で精一杯なのだ。
 いや、それすら怪しい。

 だから、どうしても二兎を得たいなら、まずは一兎を得て、しかる後に、次の一兎に取りかかる。
 これが文武両道の時間差攻撃である。

 その時々で偏りがあったよね。
 でも、気づいたら両方上手く行ってたよ。

 何も年がら年中、力を50%&50%に配分することだけが文武両道ではない。

◆究めれば一道
 一道を究めることが至難であることは誰にも分かることだ。
 まして両道を究めるなんで人間業じゃない。

 よく文武両道を謳う学校に対して、「あの学校は『文武分業』だから」などと揶揄する声が聞かれる。
 文武分業のどこが悪い。
 「わが校には部活で日本一を目指している生徒がいます。将来はオリンピックでメダルを獲りたいと言っています。その一方、東大やハーバードを目指している生徒もいます。将来はノーベル賞を獲りたいと言っています。両方合わせると文武両道です」
 これって、悪くないないだろう。

 世の中、結局分業じゃないか。
 縄文時代じゃないんだよ。
 産業革命からこっち、徹底的に分業化が図られたのが今の世の中だ。

 金メダルは一つで十分だ。 
 それぞれが自分の得意分野や目指した方向で頂点に立てれば、他に何が必要だと言うのだ。
 多様性の時代に、昭和の価値観押し付けるなよ。

◆気分は文武両道
 というような考えに立つと、今言われている文武両道は、どうも中途半端で気分的なものと思わざるを得ない。
 全部が全部とは言わない。
 そういう学校が多いということだ。

 中途半端な商品やサービスを求める消費者は、結局のところ自身が中途半端なのだ。
 こだわりってものがない。
 要は何だっていい。

 学校も似たようなもので、中途半端は中途半端を集めてしまうのだ。
 よって結果も中途半端。

 いったん、どっちかに振り切ってしまう。
 あるいは、二人合わせて文武両道でもいいじゃないか、長い目で見れば両方できてるから構わんでしょうと開き直る。

 どうとでも受け取れる文武両道を呪文のように唱えるのではなく、これがわが校の目指す文武両道だと言い切ってほしい。
 そうじゃないと選ぶに選べない。