「人生はマラソンだ」という使い古されたフレーズがある。
 校長先生の訓話から、自己啓発本の帯、あるいは受験予備校のキャッチコピーに至るまで、私たちはこの比喩を耳にタコができるほど聞かされてきた。
 なぜ、数あるスポーツの中でマラソンなのか。
 100mでも400m障害でも棒高跳びでもなく、なぜマラソンなのか。

 その理由は「時間の長さ」と「挽回可能性」に集約されるのだろう。
 100m走のように、最初の一歩二歩でつまずいたら、それですべてが終わるような世界ではない。道中、多少立ち止まっても、靴紐を結び直しても、何なら途中歩いてしまったとしても、残りの10数㎞で巻き返せるのではないか。そんな「逆転の物語」への期待が、この比喩を不朽のものにしている。

 しかし、実際のところ、現役の受験生や、荒波に揉まれている社会人の心に、この言葉はどこまで響いているのだろうか。つい最近、受験生の1年といった内容の原稿を頼まれたのだが、当たり前のように、というか、深く考えもせずに使ってしまいそうなので、一瞬立ち止まって考えてみようと思うのである。

 まず認めなければならないのは、この「マラソン比喩」を好んで使う側の多くが、実際の42.195㎞を走り抜いた経験を持たないということだ。テレビに映る先頭集団の華やかなデッドヒートや、沿道の声援、そして感動のゴールシーンだけを脳内で再生しながら、もっともらしい精神論を説く。しかし、現実のマラソンはもっと孤独で、もっと単調で、そして何より「準備がすべてを決める」競技である。

 逆転劇は確かに存在する。
 だが、それはあくまで「実力が拮抗している者同士」の間でしか起こらないものだ。
 たとえば30キロ地点からのスパートで逆転するためには、その時点まで、少なくともトップ集団の背中が見える位置にいる必要がある。つまりは、トップ集団にいる選手と同様の筋力と心肺機能が必要になる。10㎞や20㎞あたりで脱落した人間に奇跡は訪れない。

 受験生がこの比喩に冷ややかな視線を送るのは、語り手の自己満足を見透かしているからだろう。大人たちが「まだ逆転できる、人生はマラソンなんだから」と語るとき、そこには往々にして、目の前の苦境に対する具体的な解決策の提示を放棄した、無責任な楽観主義が透けて見える。

 マラソンという言葉が強いているのは「長時間にわたる継続的な苦痛」への耐性である。
 だから、もし、マラソンを比喩として使うのであれば、語るべきは「逆転」ではなく「ペース配分」と「故障のリスク」だろう。

 人生も受験も、がむしゃらに走ればいいというものではない。序盤にオーバーペースで飛ばせば、中盤で必ず「30キロの壁」にぶつかり、心身が悲鳴を上げる。また、どれほど意志が強くても、足を痛めれば(あるいはメンタルを病めれば)、走ることそのものが不可能になる。マラソンランナーが最も恐れるのは、他人に抜かれることよりも、自分の体が動かなくなることだ。
 しかし、教育現場やビジネスの場で語られるマラソン論には、なぜかこの「休息」や「リハビリ」の概念が欠落していることが多い。ただひたすらに「最後には逆転がある」と、ゴール地点の幻想だけを見せ続ける。

 さらに言えば、現代の受験勉強をマラソンに例えることの最大の不都合は、それが「順位を競う競技」であるという前提を強化してしまう点にある。
 もし人生がマラソンなのだとしたら、それはオリンピックの代表選考会ではなく、必ずしも順位やタイムだけを到達目標としない市民マラソンではないか。全部走り通してもいいし、途中で歩いても休んでもいい。自身の身体と相談して途中リタイアしてもいい。それぞれいろんな目標があって、いろんな走り方がある。それがマラソンだ。

 なのに、私たちは「逆転」というキーワードに固執するあまり、「誰かを追い抜くこと」を至上命題として語ってしまう。逆転劇が稀有な例としてしか存在しないのは、それが社会構造上、一握りの人間にしか許されない椅子取りゲームだからだ。みんなが逆転したら、それはもはや逆転とは呼ばない。

 マラソンという比喩がこれほどまでに愛されるのは、それが語り手にとって「都合のいい物語」を構築しやすいからに他ならない。長い時間をかけて努力することを美徳とし、挫折を乗り越えて、最後には感動の大団円を迎える。そのストーリーは、聞いている受験生の焦燥や不安を一時的に麻痺させる麻薬のような効果を持つが、ただそれだけだ。

 人生はマラソンに似ているかもしれない。しかし、それは逆転が可能だからではない。どんなに苦しくても、自分の足で一歩ずつ前に進む以外に、ゴールに辿り着く方法がないという、逃げ場のないシンプルさにおいて似ているのだ。

 と、まあ、そんなわけで、これまで安易に使っていた「受験勉強マラソン説」を封印しようと思う。
 安易な逆転の夢を語るのはやめにして、意識朦朧の中で、それでも足を動かし続けるための具体的な方法を教えてあげることにしょう。できるかどうか分からないがやってみよう。