カルロス・ゴーン氏の一件。なぜか思い浮かんだのはデュマの小説「モンテクリスト伯」。子供の頃、児童向けダイジェスト版である「巌窟王」を読み、大人になってから、たぶん高校生か大学生の頃だったと思うが、やたらとナガーイ原作を読んだ。

 当時はなぜか、海外文学のナガーイやつとか、難解なやつを読むのが今で言うマイブームになっていて、「おらおら、読み倒してやったぜ」という自己満足に浸っていたのだった。ただ、たくさん読んだ割りには身になっていないのが悲しいところだ。

 「モンテクリスト伯」は、無実の罪で投獄された主人公が14年にわたる刑務所暮らしを経て脱獄し、その後巨万の富を手に入れ、自分を陥れた連中に復讐を果たす物語。まあ、通俗的な小説だね。ナガーイだけで名作とは思わないし、ゴーン氏の一件とは重なり合わない。ただパッと思い浮かんだだけ。
 読書というのは、短いのは年を取ってからでも読めるが、ナガーイのは体力のある若いうちに限る。私が若い人に勧めるのは、古くて長くて難しいやつ。

 で、ゴーン氏の話だが、彼は脱獄したわけではない。ここは小説とは異なる。
 いま現在、かれは容疑者なのだ。これから裁判が始まり有罪か無罪かが決まる。ほとんど犯罪者、悪人の扱いを受けているが、もしかしたら無罪かもしれない。

 マスコミでは逮捕されたら犯罪者、起訴されたら犯罪者という扱いを受けるが、裁判で有罪が確定するまでは、無罪の人として扱われなければならない。これを推定無罪の原則という。また、刑事裁判では、被告人の有罪を立証するのは検察の責任であり、被告人自身は無罪を主張するも、それを立証する責任はない。

 ゴーン氏が無罪であることに自信があるなら、正々堂々裁判で戦えばいいではないかとなるわけだが、たぶん裁判は10年以上はかかる。ゴーン氏は1954年生まれというから、私よりは2~3歳は若いが、もし有罪となれば(検察は威信にかけても有罪に持って行こうとするだろう)、かれは二度と娑婆の空気を吸うことなくムショでその人生を終えることになる。
 だったら、イチかバチか逃げるか

 日本で生まれ日本で育った私には海外逃亡は想像すらできないが、日本では外国人であるゴーン氏であれば、そのように考えたとしても不思議ではない。
もし私が、海外で罪に問われ、しかもそれが、「えっ、何で?」という内容であり、かつ日本では考えられない扱いを受けたとしたら、実行するかどうかは別として「いっそ逃げるか」くらいは考えたかもしれない。

 ゴーン氏の行動を全面的に肯定するわけではないが、と言うか、日産自動車という一民間企業の内紛などどうでもいいが、彼によって投げかけられた日本の司法の問題点は、この際真剣に考えたほうがいい。
 ゴーン氏が受けた扱いは、別に外国人だからとか金持ちだからというのではなく、誰もが同じ立場に立たされる可能性があるのだ。大金持ちのゴーン氏だからまだいいが、名もなく貧しい私たちには何の抵抗手段もない。

 日本の司法には戦前からの悪しき伝統が残っていると言われる。万一、これが己の身に降りかかったらどうだろう。そう考えると、ゴーンは悪い奴というだけでは片付けられない問題である。