このブログの古くからの読者の方は、頭の片隅に微かに残っているかもしれない。
 2016年11月に共学化をめぐって、こんな記事を書いた。
 今から7年前、旧ブログ(梅野弘之の先生応援ブログ)の時代である。
 もちろん書いた本人はちゃんと覚えている。
 あやふやなのは、それがいつだったかだけである。

 旧ブログにリンクを貼ってもいいが、短い記事なのでここに再録しよう。
 以下引用 

 浦高、一女の共学化。こんなプランなら賛成してもいい
 もう10年以上前になるだろうか。浦高や浦和一女など男女別学校を共学化せよと求める動きがあった。
 学校内部から起こった声ではなく、いわゆる市民グループや一部県議が活発に動いたのだが、卒業生・在校生・保護者など当該校の関係者は、ほぼ反対であり、結局この動きは実らなかった。

 県内私立高校は、こうした外部の意見とは関係なく、自らの意思で共学化している。
 大宮開成・星野・細田学園・山村学園などは女子校から、叡明は男子校(小松原)からの共学化だ。近く、浦和麗明も女子校から共学となる。
 動機やねらいはそれぞれだが、生徒募集の強化、進学指導の強化などを考えたものだと思われる。

 公立の別学校は、浦高と一女、川越と川越女子のように、同じ地域に男子校と女子校がセットで存在しているので、これによって女子の学校選択が制限されているとは言えない。むしろ、共学があって、別学もあったほうが、選択の幅が広がるし、学校の特色も発揮しやすいので、無理に共学化を図る必要もあるまい。

 私は、公立別学校の共学化については、絶対反対というほどではない。同時にやってほしいことがあって、それが満たされるなら、賛成してもいいと思っている。
 ただ単に共学化すると、浦高がトップ校で浦和一女が2番手校、川越がトップで川越女子が2番手校になるだけだ。

 たとえばの話だが、浦高を高度なサイエンス(科学技術)教育に特化した高校にする。分かりやすく言えば、全部が理数科みたいな学校だ。一方、浦和一女を国際教育に特化した高校にする。国際バカロレアの認定を受け、帰国生・留学生をどんどん受け入れ、多くの授業を英語で行い、進学先は海外の大学というイメージ。
 両校は近いので、教科によっては、もう一方の学校の授業も受けられて、単位として認定される。
 合同の行事があってもいいし、部活も統合したっていい。先生も行ったり来たり。

 同様なことを川越や熊谷でもやる。そうすれば、足して2で割ったような学校が2つ出来上がるのではなく、特色ある学校が2校出来る。
 で、結果として共学化。
 あくまでも、たとえばというプランだが、この手の話があって、その上で共学化というなら、面白そうだから、賛成に回ってもいいと思っている。
 2016-11-02

 引用終わり
 
 今書いたらかなり違った文章になりそうだが、7年の歳月を経ても基本的な考え方はさほど変わっていないと感じる。

◆伝統はなぜ伝統となり得たか
 別学校を存続すべきという意見をお持ちの方の中には、その理由として伝統をあげる方が多いようだ。
 伝統には価値があり、価値あるものは次代に引き継いだほうがいいと思うので、そこは賛同できる。

 では、なぜ伝統が築かれたかというと、何十年にわたり、その時その時の人々に支持を受け続けてきたからである。
 風雪に耐え、荒波に揉まれ、生き残ってきたからである。
 今風の軽いノリなら、ずっと「いいね」をもらい続けてきた。
 だから、世代を超え、時代を経て 引き継がれてきた伝統は信用していい。
 
 その点、今もてはやされている新しいものは、まだ全然揉まれていない。
 今の評価は得られても、次の世代ではどうなっているか分からない。
 もちろん新しいものの中にも、次の世代、また次の世代と受け継がれて行くものもあるだろうが、否定され消え去るものもある。
 そういう点での不安は残る。

 という話をすると、「やっぱりオマエは守旧派か」となるだろう。
 まあいい加減年寄りだし、そこは否定できない。

 だが、伝統については、もう一つ考えていることがある。

 今は伝統と呼ばれているものであっても、すべてはその昔、誰かが新しく始めたものである。
 つまり、伝統の始まりは革新であった。
 伝統と革新は相対するように見えて、実は一体である。
 伝統とは、革新により生まれ、革新により生き残ってきたのである。

 たとえば、いま伝統と呼ばれている技術や手法の中に、最初に始めた人と同じやり方が引き継がれているものがどれだけあるだろうか。
 おそらく伝統とは言いながら、時代時代で新しい発想や技術が取り入れられ今日に至っているのだろう。
 そうしなければ、技術や手法は時代に受け入れられず、いつしか忘れ去られ、伝統とはなり得ないのである。
 
 ただ昔からの伝統だというのでは思考停止だ。
 それでは伝統は守れない。
 過去の郷愁に浸っている場合ではない。
 伝統を守りたいと思うなら、現在を冷静に見つめ、さらには未来に向けて想像力を働かせる必要があるだろう。