今日は、花咲徳栄高校の卒業式に参列してきた。
立場はいわゆる「来賓」ではあるが、壇上に上がるわけではない。
ステージに居並ぶのは地域の名士の方々であり、私のような一般人は、下から静かに見上げているのが分相応というものだ。
しかし、これは卑屈になっているのではない。衆人環視の中で姿勢を崩すことも居眠りも許されない壇上の緊張感に比べれば、下で見守る立場はずっと気楽だ。いい意味で肩の力を抜き、式典そのものを存分に味わうことができる「特等席」なのだ。
そんなリラックスした視点から今日の式典を眺めていて、改めて考えさせられたことが二つある。
それは「式辞」というものの在り方についてだ。
◆「辞」とは、練り上げられた誠意の結晶
一つ目は、式辞とは「読み上げるもの」であるという点だ。
当たり前のことだが、「辞」と名の付くものは、その場の思い付きで喋ってはいけない。卒業式における式辞、祝辞、送辞、答辞は、あらかじめ用意した言葉を巻紙や蛇腹折りの専用用紙に毛筆でしたため、それを読み上げるのが正式な作法である。
式次第に名が記され、数週間前から依頼されているということは、「時間をかけて練り上げた言葉を頂戴したい」という主催者側の願いの表れでもある。それに応えることこそが礼儀であり、誠意というものだろう。
私も年齢を重ね、会合で「一言ご挨拶を」と求められる機会が増えた。
直前の指名や前日の依頼であれば、その場の空気に応じた即興のスピーチが喜ばれる。しかし、前もって依頼された場合は、私も便箋に原稿を用意して臨むようにしている。現場の空気を見て即興の言葉を付け加えることはあっても、土台となるのは準備された書面だ。
これからキャリアを積む若い塾講師の方々も、いずれ正式な「辞」を依頼される日が来るだろう。その時はぜひ、書面を携えてほしい。書くという行為そのものが、聞き手へのリスペクトを形にするということなのだから。
◆校長式辞を「時代の証言」として残したい
二つ目は、こうした式辞を「学校の歴史(記録)」としてアーカイブ化すべきではないか、という提案だ。
例えば東京大学は、歴代の式辞や祝辞をホームページで10年分ほど公開している。これを高校でも実施してはどうか。
校長の日常のブログなどは代替わりとともに消しても構わないが、二大式典(入学式・卒業式)の式辞だけは、学校の歩みとして残しておく価値がある。
今日の花咲徳栄高校、関正一校長の式辞がまさにそうだった。関校長は、冒頭でコロナ禍に触れた。
「まだコロナの話か」と思われる方もいるかもしれない。だが、今日卒業した彼らの歩みを振り返れば、その言葉の重みがわかる。彼らは小学校の卒業式直前に突然の休校を経験し、中学校への入学も6月までずれ込んだ学年だ。入学式も卒業式も、常に制限の中。今日の卒業式こそが、彼らにとって人生初の「フルスペック」の式典だったのである。
「皆さんが本校に入学した三年前を思い起こします。当時はマスク着用のもと、教室にはパーテーションが置かれ、友人の素顔を見ることさえままならない状況でした。しかし、本日の卒業式では、皆さん一人ひとりの表情がはっきりと見えます。壇上からは、皆さんの晴れやかな顔、そして保護者の皆様の温かなまなざしを感じることができます。あの困難な時期を乗り越え、今日この日を迎えたことに、深い感慨を覚えます」
この関校長の言葉は、単なる挨拶ではない。いつか学校の周年記念誌を編む際、これ以上に当時の情景を雄弁に物語る資料はないだろう。
幸いなことに、式辞は形式上、書面として校内のどこかに保管されている可能性が高い。
それを関係者だけの記録にしておくのはもったいない。
学校ホームページに、沿革などと並べ「歴代校長式辞集」を加えるというのはどうだろうか。
それは学校のアイデンティティを証明し、その時代を生きた生徒たちの姿を後世に伝える「歴史の証言」にもなるだろう。
以下、参考。
東京大学ホームページ 式辞・告辞・祝辞集

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