映画『国宝』を見てきた。
 記録的な興行収入を叩き出している話題作とあらば、冥途の土産に一度は見ておいてもよかろう。そう思って劇場に足を運んだ。
 実のところ、私は小説の映画化にはあまり乗り気ではない。原作を読んで自分の中に築き上げた世界観が、映像化によって壊されてしまうのではないかという不安が常にあるからだ。
 だから今回も、文庫本上下巻、800ページを超える大作を読み終えた時点で「もう十分」と思っていた。
 物語の余韻に浸りながら、映画は見なくてもいいだろうと。

 しかし、世間の熱狂ぶりに抗えなかった。
 周囲には「国宝、見た派」がわんさかいて、肩身が狭い。
「いや、自分は原作読んでるから」と言っても、「だから何なのよ」と返される始末。
 中には二度、三度と劇場に足を運んだ猛者もいる。
 ここまで評判になっているなら、いったん自分の主義主張を引っ込めて、世間の熱狂に身を委ねてみるのも一興かもしれない。
 そうして見た映画『国宝』は、結果として「見て良かった」と思える作品だった。

 上映時間は約3時間。
 長尺にもかかわらず、時間の流れを忘れるほど没入できた。
 これは原作を読んでいた強みかもしれない。
 展開が分かっているからこそ、細部の演出や俳優の表情、背景の美術などに目が向き、物語の奥行きをより深く味わえた。
 特に主人公・喜久雄の人生を通して描かれる芸の道と人間の業は、映像で見ることで一層の迫力と説得力を持って迫ってくる。
 なお、喜久雄のモデルは、「歌舞伎界の出身ではなく」、「当代一の女形」で、「人間国宝となった」坂東玉三郎ではないかという見方があるが、他の人物も含め特定のモデルはいないようだ。

 主人公は、歌舞伎の世界とは無縁の極道の家に生まれた。
 幼少期から特殊な家庭環境の中で育ち、やがて歌舞伎という伝統芸能の世界に足を踏み入れる。
 血筋や家柄が重視される世界において、異端の出自を持つ彼が「国宝」と呼ばれる存在へと昇華していく過程は、まさに逆境からの飛翔であり、物語の大きな魅力のひとつだ。
 自らの意志と才能で道を切り拓いていく姿は、現代の観客にも強く響く。

 ただし、映画と原作では描かれ方に大きな違いもある。
 たとえば、原作で喜久雄と密接な関係にあった徳次という人物は、映画ではほとんど描かれていない。
 生い立ちの異なる二人の若者、喜久雄(吉沢亮)と俊介(横浜流星)にスポットを当てるために、人間関係をそぎ落とした構成になっているようだ。
 原作では俊介の妻・春江をはじめ、喜久雄や俊介を取り巻く女性たちの生きざまも丁寧に描かれているが、映画ではそこにはあまり深入りしていない。
 ここは原作でも大きな読みどころなのだが、3時間という制限の中では大胆なカットもやむを得ない。
 だからこそ、映画を見て興味を持った方には、ぜひ原作の方でもその奥行きを味わっていただきたい。

 これまでも映画の一シーンとして歌舞伎が登場することはあった。
 しかし、今回は歌舞伎そのものが物語の核である。ゆえに、演出においても手抜きは許されない。
 若い二人の俳優が本物の歌舞伎役者顔負けに『道成寺』を踊り、『曽根崎心中』を演じる様は圧巻である。
 型の美しさ、所作の緊張感、そして舞台に立つ者の覚悟がスクリーン越しに伝わってくる。

 まだ映画を見ていない方には、どちらが先でも構わないが、映画と原作小説の両方をおすすめしたい。
 それぞれが異なる角度から物語の魅力を照らし出してくれる。
 原作で描かれる細やかな心理描写と、映画で体感する芸の迫力。その両方を味わうことで、『国宝』という作品がより深く、より豊かに心に残るはずだ。

小説・国宝(吉田修一著)