選挙に落ちた政治家の口から、ほとんど反射のように出てくる「不徳の致すところ」という言葉が気になっている。
 徳が足りなかった、と自らに引き取ってみせるその姿は、たしかに潔い。
 少なくとも、我々の社会ではそう受け取られやすい。

 人々は、言葉の中身以上に態度を見る。
 どれほど深く頭を下げたか。表情はどうか。声は震えているか。
 謝罪は一種の儀式であり、関係修復の作法でもある。
 だから「不徳の致すところ」という抽象的な表現でも、一定の役割を果たしてきた。
 誰かを名指しで責めることもなく、支持者の顔も立て、とりあえず幕を引く。
 国内向けとしては、よくできた便利な言葉である。

 しかし、である。

 世界がこれほど騒がしく、複雑になった時代に、「徳」という一語で政治の失敗を包み込んでしまってよいのだろうか。
 気候変動、エネルギー問題、分断するグローバル経済。
 政治は道徳ではなく、高度な経営判断の連続だ。
 そこでは「潔い姿勢」よりも、「何が誤りで、どう修正するのか」という具体性が問われる。

 欧米の政治家の辞任会見を見ると、少なくとも形式としては、原因、責任の範囲、今後の対応が語られる。
 謝罪は感情の表明であると同時に、説明の場でもある。
 抽象的な自己反省だけでは、説明責任を果たしたことにはならない。
 国際社会は、姿勢よりも中身、角度よりも数字を見る。

 もちろん、だからといって「徳など不要だ」と切り捨てるつもりはない。
 悪徳政治家が歓迎されるはずもないし、信頼を裏切るリーダーに国を託すこともできない。
 むしろ徳とは、清廉さそのものというより、「信頼を損なわない振る舞い」の総体と捉えるべきだろう。
 透明性を保ち、説明を尽くし、間違いを認め、修正する。
 その積み重ねが、結果としての「徳」になる。

 問題は順番である。徳を語る前に、具体を語っているか。
 頭を下げる前に、原因を分析しているか。
 日本的な「とりあえず謝る」という文化は、国内では波風を立てない知恵として機能する。
 しかし、それだけで世界と渡り合えるほど、国際社会は甘くない(と思う)。

 これからの若い世代には、内向けと外向けを峻別する視点が求められるだろう。
 国内では通じる暗黙の了解も、外では通じない。
 姿勢で理解してもらえる場面と、ロジックとデータで語らなければならない場面は違う。
 その切り替えができるかどうかが重要だ。

 潔さは美徳である。
 しかし、潔さだけでは国は動かない。
 令和の「敗者の弁」に必要なのは、「不徳の致すところ」と一礼することではなく、「何を誤り、何を改めるか」を具体的に示すことだろう。
 深々と下げた頭の角度よりも、次の一手の明確さ。そこにこそ、これからの政治に求められる本当の意味での徳があるのではないか。