これは自分の守備範囲ではないな、と思いながらも、この1年間、考え続けてきたことがある。
それは、全日制高校の機能や役割ということだ。
ネットを利用して学習ができるようになった。
優れたアプリもたくさんある。
通信制高校の人気と評価が高まってきた。
そんな時代に、いつでもどこでも高品質な講義を受けられる今の時代に、「学校という場所に、なぜわざわざ集まるのか?」。
たとえば、知識を得るだけであれば、効率の面でもコストの面でも、オンラインの方が優れている場合も多いだろう。
だが、そんな中、先生と生徒が「同じ時間・同じ場所」を共有する。これは無意味ではないか、少なくとも非合理ではないか。
しかし、こうした学校というシステムへの批判がそれほど多くないのは、何かしら理由があるのだろう。
◆学校には偶然がある、想定外がある
オンライン学習は、自分が興味のあることや、必要な情報をピンポイントで学ぶのには最適だ。
だが、効率化されすぎているがゆえに、「興味のないもの」や「自分と異なる価値観」を排除できてしまう。
その点、学校では、「興味のないもの」も強制的に学ばせられる。
これは一見非合理であるが、ここから未知への興味や、自身も気がつかない才能が引き出されるかもしれない。
授業の、先生の雑談や寄り道、あるいは休み時間の何がない会話、そういうところから新しい興味が芽生えることもあるだろう。
また、気が合う人だけでなく、苦手な人や全く違うバックグラウンドを持つ人と席を並べることで、多角的な視点が養われるかもしれない。
これらは絶対にそうなるというものではない。そうならないこともある。
あくまでも偶然なのだが、「学校には偶然がある、想定外がある」というのが、対面の学校がもつ優れた機能である。
◆非認知能力を伸ばす
AIは、コミュニケーション能力や共感性といった非認知能力では、今のところ人間には及ばないだろう。
空気を読んだり、言語以外の表情、声のトーンなどから何かを察知できるのも、対面だからこそである。
人と意見が対立したり、何かでしくじったり、そういう体験を通じて感情をコントロールしたり、人との距離の置き方詰め方なども学んで行く。
こうしたことは、オンラインではなかなか経験できないことである。
◆五感を使った学び
同じ空間で同じ空気を吸いながら活動することは、人間の脳に安心感を与えるという。
合唱やスポーツ、あるいは難しい試験を終えた後の解放感など、同じリズムや熱量を共有することで生まれる絆は、孤独なオンライン学習では得がたいものだ。
理科の実験の匂い、美術の絵具の感触、休み時間の騒がしさ。こうした身体的な記憶は、知識を定着させる強力な引き金にもなる。
知識の伝達だけなら、わざわざ同じ時間、同じ時間に集まる必要はない。
偶然や想定外も含めて、「一人ではできない経験をするためのプラットフォーム」。これがこれからの学校の姿ではないだろうか。
体育館に全員集めて、諸注意、諸連絡。そういうのはネットでやればいい。せっかく集まったのだから、一人じゃできないことをやろうじゃないか。
年末の御挨拶など兼ねて学校訪問しているが、こんな話題もよく出ていますという報告だ。

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