間もなく敬老の日(9月21日)である。
そこで今日は、「老人の主張」である。
年寄りには「AI」が必要だ。もちろんこの場合、「愛」ではなく「エーアイ(人工知能)」である。
昨今、生成AIの進化と普及には目を見張るものがある。だが一方で、「若者の思考力が低下する」「偽情報に騙される危険がある」といった警戒論も根強い。
特に中高生や大学生など、これから脳を鍛え、社会に出ていく若い世代に対しては、AIへの過度な依存を懸念して積極的な利用を勧めない識者も多い。
その懸念はもっともである。
思考の筋力をつける大事な時期に、答えを一瞬で出してくれる万能の小道具を与えてしまっては、地頭が鍛えられないというのも理解できる。
だが、それはあくまでも「これから伸びる若者」の話だ。
もうこの先伸びる可能性はなく、縮む一方の年寄りにこの論は当てはまらない。
(実際、身体測定の結果、身長は2~3センチ縮んでいた)
であるから伸びる心配がない年寄りこそ、AIを積極的に使いまくり、使い倒すべきなのだ。
現在危惧されているAIの悪影響やマイナス面など、老兵にはほとんど、いやまったく関係がないからである。
「自分の頭で考えなくなる」
たしかにそれは言える。
だが心配無用。こちらの頭は、AIに頼る前からとっくに衰え、考えがまとまらなくなっている。今さら思考力が低下したところで、痛くも痒くもないのだ。
若い世代に依存するなと言うのは将来を心配してのことだろうが、年寄りには心配すべき「伸びしろ」も「遠い将来」もない。あったとしても、ごく僅かだ。
長年、インタビュー取材を仕事の一つにしてきた私だが、若い頃はメモを取る手が追いついていた。相手の言葉の要点さえメモしておけば、それを手掛かりに記憶の糸をたぐり寄せ、細部まで正確に発言を再現できたものだ。念のためにレコーダーも回していたが、聞き直すことなど滅多になかった。
ところが、年齢を重ねるにつれ、手のスピードも記憶力も目に見えて落ちた。
おまけに視力も聴力も怪しくなり、昔と同じやり方では満足なクオリティの仕事ができなくなってしまった。
「潮時か」と覚悟したその時、救世主のように現れたのが、生成AIを搭載した文字起こし機能付きボイスレコーダーである。
取材中のやり取りを一字一句漏らさず高精度でテキスト化し、瞬時に要約まで作成してくれるこの機械のおかげで、私は取材現場での精神的・体力的負担から一気に解放された。老眼でかすむ目でメモを追う必要もなければ、聞き逃した発言に冷や汗をかく必要もない。まさに、テクノロジーが私を「仕事人」として延命させてくれた瞬間であった。
目が見えにくくなれば老眼鏡をかけ、耳が遠くなれば補聴器をつける。足腰が弱れば杖をつく。それとまったく同じことだ。
衰える一方の脳と体力を補うためにAIという「脳の杖」を借りることの何が悪いというのだろう。
意地を張って自力にこだわり、行動範囲を狭めるくらいなら、機械の力を借りて活動の場を広げる方がはるかに建設的であり、人生の満足度も高いはずだ。
若者たちが「依存」を恐れて踏みとどまっている間に、我々老人は遠慮なく最新テクノロジーの恩恵に預かればいい。
知識と経験(そして少々の分別)というデータベースだけは無駄に蓄積されているのだから、AIの嘘(ハルシネーション)を見抜く力だって、案外年寄りの方が長けているかもしれない。
年寄りこそAIを使い倒せ。自分からAIを引っさげて社会に打って出ようではないか。

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