本日はさいたま市内の公立中学校で、高校入試をテーマとする講演を行ってきた。
 昨年からの継続となるリピートオーダーである。再度声をかけていただいたということは、少なくとも前回の内容について「二度と呼ぶものか」という評価にはならなかったのだろう。
 が、しかし、それなりの手応えを感じつつも、やはり中学生を相手に話をするのは実に難しいと痛感させられる一日となった。

 なにせ、話し手である私と生徒たちの間には60歳以上の年齢差がある。
 希望すれば保護者も参加可能という形式だったため、会場の後方には保護者の姿も見受けられたが、その保護者たちと比べても30歳以上の差があるのだ。
 さらに言えば、対象が中学3年生だけであれば、直前に迫った入試本番に向けた具体的な心構えや最新の動向に絞って話を展開できる。しかし、今回は中学1年生・2年生も同席していた。学力の個人差はもちろんのこと、高校受検に対する意識の差も非常に大きい。これほどまでに多様で、関心のレイヤーが異なる集団を相手にするのは、実に難易度が高いシチュエーションである。
 日々こうした集団を相手に授業を行い、生活指導を重ねている中学校の先生方の存在は、私から見ればまさにスーパーマンのように思えてくる。

 今回の講演会場は体育館であったが、ステージの上から一方的に話しかけるスタイルではなく、生徒たちと同じフロアに立ち、目線を合わせて行うスタイルだった。壇上とフロアのように1メートル以上の落差があり、5メートル以上の距離が開いてしまうと、双方向のやり取りや対話型の雰囲気を作ることはほぼ不可能になる。その点、同じ床の上に立ち、至近距離で顔を見合わせながら話ができる空間づくりは実に効果的であった。生徒たちの表情や頷きがダイレクトに伝わってくるため、こちらの語りかけにも自然と熱が入る。

 しかし、そうした距離感の中で驚かされたこともあった。それは、中学3年生であっても「埼玉県教育委員会のホームページにある入試情報を見たことがある」という生徒が、ほぼ皆無に等しかったことだ。大人の感覚からすれば、高校入試の一次情報が掲載されている教育委員会のWebサイトをチェックするのは当然の行動のように思える。だが、よくよく考えてみれば中学生とはそういうものなのだろう。「教育委員会」という言葉自体は社会科などで聞き覚えていても、それが自分たちの眼前の高校入試とどう結びついているのか、実感として湧いていないのが13歳から15歳のリアルな姿である。

 彼らにとってのスマートフォンは、ゲームを楽しむためのマシーンであり、情報を集める対象もファッションや音楽、ダンス、芸能人、あるいは自身の好きなスポーツといった関心事に限られる。「入試の正確な情報を自ら行政のサイトへ取りに行く」という発想に至らないのは、ある意味で至極当然のことである。大人がこれでは困るが、中学生という発達段階を考えればごく自然な反応と言えるだろう。とはいえ、現実として高校入試という壁は刻一刻と近づいており、遅かれ早かれ向き合わなければならない。

 この年代の生徒たちと接していて強く感じるのは、大人側がいかに情報を整理し、順序立てて、体系的に論理を展開したとしても、彼らの記憶に残るのは「印象に残ったいくつかの断片(ピース)」に過ぎないということだ。中学生の段階では、提示された情報の中からその場で正確に重要度を判断し、構造化して理解することは難しい。だからこそ、自分の心にひっかかった一部の言葉やエピソードだけが記憶にとどまることになる。

 では、講演という一回限りの機会で体系的な理解を届けることは不可能なのだろうか。答えは「役割分担」にある。講演者としての私の役割は、目の前の生徒たちに強い印象を残し、考えるきっかけとなる「情報や気づきのピース」を渡すことである。そして、そのバラバラのピースを繋ぎ合わせ、一つの体系的な理解へと高めていく作業は、日々生徒たちと向き合っている中学校の先生方の指導に委ねるしかない。一回の講演ですべてを完結させようとするのではなく、学校現場での日常的な指導へとバトンをつなぐことこそが重要なのだ。

 教えに行ったはずの講演であったが、中学生の生の実態や情報の受け止め方に触れ、私自身が学ぶことの非常に多い時間となった。このような貴重な機会を企画し、準備を重ねてくださったPTAの皆様、そして多忙な業務の中でバックアップしてくださった学校の先生方に、心より感謝申し上げたい。