埼玉新聞にこんな記事が出ていた。
紙の新聞の方にも載っていたが、こちらはWEB版ニュース。
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埼玉の高校入試に変化…調査書の「特別活動等の記録」「その他」などがなくなると、受験生はどう対応すべきか 「特別活動等の記録」に生徒会・部活動の成績が記載、「その他」は(10月5日)
この講演、9月10日に行われたものだから、実施から25日目での記事掲載となった。
速報性が求められる記事ではないので、いつ掲載されても構わないが、それにしても、ちょっと間が空いたなという感じはする。
ご記憶の方は少ないと思うが、この日のことは当ブログでも書いている。
同じ一つの講演を扱っているのだが、新聞記事と私のブログでは、かなり違ったものになっている。
◆記者が拾ったのは「調査書の変更」
埼玉新聞の記事では、来春の公立高校入試から調査書が変わり、「特別活動等の記録」や資格取得状況などを記す欄がなくなることが大きく取り上げられている。
そして、3年間9教科の評定が記載される形になることから、学校での成績、さらには日々の授業を大切にしてほしいという話につながっている。
もちろん私はそういう話をした。
事実である。
ただ、講演を終えた私自身が「今日一番考えさせられたことは何だったか」と問われれば、そこではなかった。
中学3年生でも県教育委員会の入試情報をほとんど見ていないことだったり、中学生に情報を届けることの難しさだったり、1年生から3年生までという関心度のまったく異なる集団に何をどう伝えるかだったりする。
私にとっては、そちらの方が印象深かった。
だから講演当日に書いたブログも、そちらが中心になった。
では、新聞記事は間違っているのか。
もちろん、そんなことはない。
◆記事は講演の「要約」ではない
私は一方で、取材して記事を書く側でもある。
だから記者の立場もよく分かる。
新聞記事にはスペースの制約がある。
講演が60分あったとして、その内容を全部書くことなどできない。10の話題があれば、その中から三つ、場合によっては一つを選ばなければならない。
そこで必要になるのが編集である。
何を残し、何を捨てるか。
何を見出しにし、何を本文の最初に持ってくるか。
そして何より、「読者は何を知りたいか」を考える。
講演者が一番言いたかったことを、そのまま一番大きく扱えばいいわけではない。
講演者にとって重要度第1位だった話が、読者にとっては第5位かもしれない。逆に講演者にとっては第3位程度の話が、読者にとっては「それを知りたかった」という情報かもしれない。
だったら、そちらを前に出す。
記事は講演者のために書くものではない。
読者のために書くものだからだ。
◆「切り取る」は悪いことではない
よく「話の一部分だけを切り取られた」という言い方をする。
たしかに、前後の文脈を無視して意味をねじ曲げるような切り取りは困る。
しかし、限られた紙面や時間の中で伝える以上、「切り取る」という作業そのものは避けられない。
むしろ、それこそが編集である。
私自身、学校を取材して記事を書くときには同じことをやっている。
校長先生や先生方が「ぜひここを書いてほしい」と思っていることと、中学生や保護者が「ここを知りたい」と思っていることが一致するとは限らない。
学校側からすれば重要な話でも、読者にとって興味が薄ければ小さくする。逆に学校側は何気なく話しただけなのに、「それは面白い」と思えば大きく扱う。
考えてみれば、ずいぶん勝手な商売なのであるが、それでいいのである。
学校案内を作っているのではなく、読者のための記事を書いているのだから。
◆報じられる側になって分かること
今回は、いつもの「書く側」ではなく、「書かれる側」に回った。
すると面白いものである。
記事を読んで、「ああ、そこを拾ったのか」と思う。
そして、ほんの少しだけ、「一番言いたかったのはそこじゃないんだけどな」とも思う。
だが、これは文句ではない。
むしろ、自分が普段やっている仕事を反対側から見せてもらったようなものだ。
話し手には話し手の優先順位がある。
書き手には書き手の優先順位がある。
そして、その先には読者がいる。
最終的に誰を見て記事を書くかと言えば、やはり読者である。
当たり前のことなのだが、「書かれる側」になってみると、その当たり前がよく分かる。
それにしても、自分が普段さんざん人の話を切り取って記事にしておきながら、いざ自分が切り取られると「そこかよ」と思う。実に身勝手なものである。

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