バッハ会長のスピーチ長過ぎだろう。オリンピック開会式で13分の長広舌。
森喜朗氏は「女性の入った会議は長い」とか言って辞任するはめになったが、話が長いのは女性だけじゃないな。
皆さん、興味ないと思うが全文はコチラ。
橋本聖子組織委員会委員長とIOCバッハ会長のスピーチ全文(NHKのサイト)
一応読んでみたが、バッハ会長のスピーチは前半だけで良かったみたいだ。
昔の開会式にはあまりショー的要素はなかったが、今のオリンピック開会式には、儀式的要素とショー的要素の両方がある。
どちらかと言うと、ショー的要素の方が強い。
そんな中、儀式的要素として欠かせないのが開会宣言と並んでIOC会長のスピーチというのはまあいいだろう。
ただ実際のところ、そこに何かを期待をしている人はいない。
形式的に、型通りやればよろしい。
スケールこそ全く違うが、こういうのを見ていると、いろいろな意味で参考になる。
主役は誰かを考えなくちゃいかん。
それと、そのセレモニーやショーにおける挨拶やスピーチの位置づけを考えなくちゃいかん。
時と場合によっては、挨拶やスピーチに注目が集まる場合もある。
そんな時に、あっさりと紋切型の挨拶やスピーチをしたのではかえって不興を買う。
聴衆に対して失礼に当たるかもしれない。
要はその場における挨拶やスピーチの位置づけを見誤らないことだ。
自分に与えられた役割を間違わないことだ。
話の内容を考えるのはそのあとだ。
本ブログの読者は先生が多いので、人前で話すことには慣れている。
目の前に人が何人いようが、それで上がってしまうということはないだろう。
そして、ここがポイントになるのだが、話で人を動かすことを仕事にしている。
それが習慣になっているものだから、挨拶やスピーチの場面でも、まずそこから入ってしまう。
挨拶やスピーチは、稀に内容が大事な場合もあるが、ほとんどの場合、内容などどうでもいいのである。
語られた内容や言葉を家までお持ち帰りする人はまずいない。
会が終わる頃には、いや、次のスピーチが始まった瞬間には、もう忘れている。
だから、間違っても聞き手に感動を与えようなどと思ってはいけない。
それは単なる自己満足だ。
さっさと終わらせる。
その方がみんなに感動を与えられる。
あの人は話が短いという評判が立てば、聞き手も短いなら聞いてやろうと気になるが、話が長い人ということになれば、最初から聞く気が起こらない。
早く終われと時計とにらめっこするだけだ。
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