皆さんご存知、「唯我独尊(ゆいがどくそん)」について。これ、もちろん仏教から来た言葉。
一昨日、天台宗とは縁の深い駒込学園(文京区)に所用があり行って来た。
たいていは一人で行くが、この日は同行者あり(N氏)。
用件終わり辞そうとしたところ、河合校長在校在室と聞き、年末ということもありご挨拶することに。
学校柄と言うべきか、河合校長とお会いすると、しばしば仏教の話となる。
私もかれこれ20年以上、年に一度は比叡山延暦寺に参る身である。その話嫌いじゃない。
校長の口から次々に繰り出される仏教用語。
それだけならいいが、日本の歴史・文学、西洋の哲学から芸術・文化、さらには最先端の科学まで、この人、一体どれだけ引き出し持ってんのとあきれるほどの博識で、ついて行くのに骨が折れる。
アイフォンのボイスメモに録音して、後で復習しよう。
さて、そんな中、出てきた一つが冒頭の「唯我独尊」。
仏教の言葉だから、有難いもののはずだが、なぜかあまり良い意味で使われていない。
「この世で、自分ほど偉いものはいないとうぬぼれること」。
多くの人がそのように記憶し、また使っていると思う。
実際、辞書にもそのように載っており、今や誤用とは言い難い。
しかし、常識的に考えてみれば、あの慈悲に満ちたお釈迦様が、まだ生まれて7歩歩いただけとはいえ、「俺様が世界で一番」などとうぬぼれるはずがないではないか。
「唯我」の「我」は、私一人ではなく、我々人間は、である。
「独尊」は、ただ一つの尊い目的。
お釈迦様は、右手で天を、左手大地を指さし、「天上天下(てんじょうてんげ)唯我独尊」と仰られた。
この大宇宙に、我々人間だけが、尊い目的を持って生まれてきた。
つまり俺様だけが偉いじゃなく、人間等しく尊いと仰られておるのだよ。
そう考えると、ヤンキーの兄ちゃんたちも、なかなかいいこと言ってるではないか。
いや、彼らの場合は、やっぱり俺様か。
本来の意味を知ったら、恥ずかしくて特攻服に刺繡なんて出来んだろう。
「唯我独尊」には諸説あるようだが、仮に「我」がお釈迦様自身のことだとしても、これはもう誰も文句は言えまい。
しかし、私たちのような凡人俗人が「我のみ尊い」などと言うのは1千億年早いというものだ。
同行のN氏、「今まで誤解してました」
いや、いいんだよ。そう思っている人がほとんどなんだから。
有難い意味を知った今日からは、本来の意味を全うできるよう精進すればいいんだ。
そうそう、そう言えば、この「有難い」も仏教から来た言葉だった。
有ることが難しい。
めったにないこと。
この世に生まれてきたことも「有り難く」、いまこうして生き続けていることも「有り難い」。
有難い人生に感謝。
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