私は暑さには強いのである。
 6月生まれの私は、生まれた瞬間この世は暑いものだと認識し、すぐに耐性を身に付けた。
 つまり身体が夏仕様なのである。

 だから、よく夏痩せなどというが、むしろ夏の方が食い過ぎて体重が増えてしまうくらいだ。
 が、そんな私でも連日の猛暑はこたえる。
 身体もそうだが、特に頭がやられている。
 屋外の肉体労働はどうってことはないが、室内での原稿書きがはかどらない。

 そんなわけで、今日も妄想である。

 私は教員OBとの付き合いも多いが、最近企業OBとの付き合いも多い。
 そのことは、何度かこのブログでも書いている。

 彼らは60代とか70代なのだが、もう一花咲かせたいと思っているようだ。
 知識もあり、教養もあり、経験もある。
 出身企業が大きければ大きいほど、往時のことが忘れられず、何かできるはずだと思っている。
 が、残念ながら、それは無理だ。
 散った花は二度と咲かないのだ。
 花はいつか散る、いつか枯れる。

◆お前はもう腐っている
 が、落ち込んではいけない。
 散った花や枝葉は、腐りながら土と混ざり、栄養のある土へと変わって行く。
 そして、それが新たな植物の誕生や成長へと繋がって行く。

 あなたがたはもはや人々から注目される花ではないのだ。
 二度と花にはなれないのだ。
 (ここで、あなたがたと他人事のように言っているが、私自身も含まれるのは言うまでもない)

 腐りつつある自分。
 まずこのことを自覚しなくてはいけない。 
 腐っている証拠に、よく人から臭いって言われるだろう。
 
 だがしかし、この「腐っている」というところに年寄りの価値があるのだ。
 「腐っている」からこそ、若い生命のための栄養分となり得るのだ。

 土(土壌)を見て、誰もすごいとか美しいとか言ってくれないだろう。
 人々の視線は花や若葉に注がれるのだ。
 が、その花や若葉を育てたのは、土に紛れ込んだ腐った枯れ葉である。 
  
 だからまず、年寄りは潔く散ることを考えなくてはいけない。
 腐ることを恐れてはいけない。
 自らは腐り、異臭を発する。
 だが滋養豊かな土となって若い芽を育てる。
 これが年寄りの唯一の価値であり、生きる道である。

◆人は教えて育てるものではない
 私はご存知のようにかつては教員だった。
 子供たちは教えて育てるものではない。
 それもちょっとは必要という程度だ。

 太陽の光を当ててやればいいのだ。
 水をくれてやればいいのだ。
 栄養を与えてやればいいのだ。
 あとは自然に育つ。

 年寄りは自らの経験を語りたがる。
 まあ勝手に語るのはいいが、それで人が育つと思ったら、大いなる誤解だ。
 経験談なんてものは、光にも水にも栄養にも、何にもならない。
 むしろ成長の邪魔。

 表舞台に立とうと思うな。
 舞台裏で動け。

 主役を張ろうと思うな。
 脇役に徹しろ。

 ということを企業OBの方々には言いたい。
 が、なにせ私の経歴は平の公務員(教員)、中小企業のサラリーマン、零細の個人経営者という冴えないものなので、まともに相手にしてもらえそうもない。