調べて書くブログというやつが自分自身の好みでもあるし、読者の皆さんも大方はそこに期待されているのだと思う。
 しかし、調査に時間がかけられない時だってある。
 そういう時は、適当に書き散らしてお茶を濁すのも生活の知恵というものだ。

 教え子が訪ねてくれた。
 教員である。

 ただでさえ説教グセの強い私であるから、相手が教え子ときたらこっちのものだ。
 さあ、絶叫マシーン、じゃなかった説教マシーン全開だ。

◆校長の仕事は授業員満足だ
 私は教員の仕事は一通りやった。
 全学年、全分掌、全行事、それと部活。
 ただ、教頭とか校長といった管理職はやっていない。
 向いていないと判断された。
 自分でもそう思う。

 その上で言う。

 校長の仕事は顧客満足ではなく従業員満足である。
 この場合、顧客は生徒・保護者であり、従業員は教職員であるのは言うまでもない。

 校長の仕事は、従業員たる教職員が快適に仕事をしてもらえる環境を作ること。
 それに尽きる。
 学校は自分の持ち物ではないから、自由になる部分とそうならない部分もあるが、制約のある中で最適化を図る。

 教職員が快適に仕事をできる環境さえ作れば、あとは彼らが勝手に顧客満足を考える。
 顧客満足は、校長でも出来るが、教職員も出来る。
 だが、従業員満足は、校長にしか出来ない。
 よって、校長の仕事は教職員満足である。

 教職員の命がけの犠牲の上にたった顧客満足なんて長続きするわけないだろう。
 教職員が自分の体力を削り、心を病み、家庭を犠牲にし、その上に実現した顧客満足に一体どれだけの価値があるというのだ。
 流行の言葉で言えば、サステイナビリティ(持続性)だよ。
 校長自身にとってサスティナブル、教職員にとってもサスティナブル。

 あと、満足の前に「自己」が付かないように気をつけな。

◆教職員は我が子
 仕事なんだから、もっとドライな関係でいい。
 それもそうなんだが、これは例えだ。
 教職員が我が子なら、生徒は孫だから、校長は孫のことはちょっと距離を置いて、可愛がる一方でいい。
 細かい指導なんてしなくていい。
 
 だが、我が子となるとそうは行かず、成長を促さなければならない。
 責任という言葉を使うなら、教職員に対しては責任があるが、生徒に対しては責任がない。
 校長が守るべきは教職員であって、生徒ではない。
 大丈夫。生徒の守りはちゃんと先生がやるから。

◆校門に立って挨拶なんてするか
 100%ない話だが、もしも私が校長だったら。
 毎朝校門に立って挨拶なんて絶対やらない。
 こんなもの、顔と名前を知っている先生たちがやるからいいんだよ。
 校長に挨拶されたって、生徒は嬉しくもなんともない。

 たまに出るとしたら、先生寒くはないか、風邪ひかないかと、そっちを気にかける。
 生徒に声がけするんじゃなく、先生に声がけすりゃいいんだ。

◆授業も面接もやらない
 校長になるような人は、授業も面接も上手かった。
 行事も部活も熱心だった。
 例外もいるが、大体はそうだ。

 しかし、校長になったら、どんなに自信があっても私はやらない。
 それは先生の仕事だし、現役バリバリにやらせた方がいい。
 どうしても授業が忘れられなかったら、校長引退してからにしなよ。

 授業は見に行くと思う。
 生徒の様子を見に行くんじゃなく、先生が力を発揮できる環境になっているかの確認のためだ。
 まあ、立場上、査定をしなければならないのは分かるが、授業の進め方について、あれこれ口出しする必要はないだろう。
 先生を伸ばしたかったら、伸ばす方法を考える。伸びる環境を作る。
 これが校長の役目であり、校長にしかできない仕事だ。

 部活の試合や発表は見に行くと思う。
 単純に好きだから。
 孫のピアノの発表を見に行く感覚。

 広告塔にはなるだろう。
 主として生徒募集に関わる広告塔だが、この話は別の機会に譲ろう。

 以上、「もしも私が」という仮定の話、想像上の話なので、説得力はないな。
 なんだってそうだが、言うとやるとでは大違いだ。