明日が終業式、明後日から夏季休業という学校も多いだろう。
 世間では未だに「学校の先生は夏休みがあっていいね」などとノンビリした話をしている人もいるようだが、そんなものないよ。
 まあ、夏季休暇はあるにはあるが、世間の会社並みだ。
 先生が休んでいるとしたら、それは普段は取れない年次有給休暇を消化しているんだろう。

 進学補講があって、部活の練習や合宿があって、おまけにPTA関係の行事やらがあって、何だよ結局普段と変わらんじゃないか。
 というのは昭和の話だが、令和の今も大して変わっていないかもしれない。

◆熱血教師のジレンマ
 何とかのジレンマという言葉を時々耳にするのではないだろうか。
 経済を勉強した人なら流動性ジレンマがお馴染みだ。
 1960代、一国の通貨を国際通貨として使用する制度(金ドル本位制)の問題点を指摘したものだ。
 基軸通貨の供給と、信用の維持は同時に達成できない。

 これに引っかけて創作したのが表題にある「熱血教師のジレンマ」というやつだ。
 まあ、恰好つけてジレンマという言葉を使ってみたかっただけなのだが、要するにこういうことだ。
 熱血教師は学校が好きだ。早朝から夜遅くまで学校にいる。
 土日も休まない。
 一日のほとんどを学校で過ごすことになる。
 家と学校との往復だけの生活になる。
 そして、傍目には教育熱心な先生。

 だが、こういう生活を長く続けていたら、どうなる?
 少しずつ少しずつ世間とずれて行くと思わないか?

 社会人としてその道の知識に精通し、技術を獲得しなければならないのは当然だが、われわれは自己の人間としての成長も図らなければならない。
 むろんこれは先生に限ったことではないが、先生には特にそれが求められる。

 毎日同じルートを往復し、毎日同じ仲間や生徒と顔を突き合わせ、毎日同じパターンの行動を繰り返していて、はたして人間的な成長が図れるだろうか。
 職業人(先生)としての成長と、一個の人間としての成長は、同時達成が難しい。
 これが珍説「熱血教師のジレンマ」

◆衝動的でいいんだよ
 世間とのズレを最小限に食い止めるには、いつもと同じ体験ではだめで、非日常体験をすることだ。
 初体験と言い換えてもいい。
 毎年夏、どんな小さなことでもいいから初体験をしてみる。
 そうすると教員生活40年の間に、40の初体験ができる計算だ。
 こいつは面白い。

 無理に仕事と結びつける必要はない。
 いや、むしろそうしないほうがいい。
 本を読むとか、名所旧跡を訪ねるとか、実験してみるとか、そういうのは結局仕事なのだ。

 これをやっておけば、いずれ授業に役立つかもしれない。
 そういうスケベ根性がどうしても出てしまうのだが、それでは発想として熱血教師の域を出ていないのだ。
 計画的なのは駄目だよ。
 衝動的でいいんだよ。
 思いつき。

 というわけで、熱血教師の皆さん。
 この夏、とうてい仕事には結びつきそうもない無意味な初体験をしてほしい。