失敗を恐れずに挑戦しよう。
 これは校長先生の講話などではほとんど定番化しているメッセージである。
 二人に一人以上の先生は、1年のどこかで必ず言っているだろう。
 
 挑戦は大事である。
 挑戦しなければ道は開けない。
 新しいものは何も生まれない。
 進歩もない。
 だが、失敗の恐れもある。
 よって挑戦するためには失敗を受け入れる覚悟が必要だ。
 逆に失敗なんてクソくらえという度胸があれば何にでも何度でも挑戦することができる。
 繰り返し挑戦すればたいていのことは成功する。

 というわけだから、「失敗を恐れず挑戦しよう」は正に金言であり不滅の真理である。
 生徒たちには繰り返し言ってきかせよう。

 が、ここに一つの疑問が生まれる。
 生徒たちは言う。
 そう言う先生は、どれだけ挑戦しているの?
 何に挑戦しているの?
 見ている限り挑戦しているとは思えないんですけど。
 毎回同じような授業だし、言葉遣いも板書も進度も全部一緒。
 服装も髪型も言葉遣いもいつも同じ。
 そんなに言うなら、挑戦のお手本見せてよ。
 派手に失敗してみてよ。
 と、生意気盛りの生徒たちは、言葉には出さずとも内心そう思っているのである。

 うんうん、分かる分かる。
 だが、生徒諸君。
 先生というのは挑戦してもいいが失敗をしてはいけないのだよ。
 なぜならば失敗すると生徒を苦しめるからだ。
 先生の失敗は生徒を不幸にする。
 だから、仮に失敗したとしても深手を負わない程度の挑戦にとどめるのだ。
 先生だって生徒のことを考えなければいくらでも大胆な挑戦ができる。
 別に失敗なんて怖くないよ。

 でも、今も言ったようにそこそこにしておかないと先生でいることができなくなる。
 だから、挑戦しろと言いながら自分では挑戦できないというジレンマに陥る。
 挑戦しろと言いながら、先生自身は安全圏から出ないという構造は、生徒からすると矛盾だろう。
 だがこれは、先生が嘘をついているわけでもなく、生徒をだましているわけでもない。
 生徒は先生の支えがあるから挑戦できるのだ。
 先生がフォローしてあげられるから生徒は失敗しても大丈夫なのだ。
 先生は安全圏にいるように見えるかもしれないが、だからこそ生徒の後押しができるのだ。

 校長は先生たちの挑戦を支える。
 先生は生徒たちの挑戦を支える。
 このような構造であるから、校長は間違っても失敗覚悟の挑戦などしてはいけない。
 万一失敗したら支える人がいなくなり全滅してしまうからだ。

 校長講話など読みながら、時々「そういうオマエはどうなんだ。何か挑戦してるのか」とツッコミを入れたりもしているが、落ち着いて考えてみれば、自分自身が挑戦したければ校長になんぞならないほうがいい。できれば先生もやめておいたほうがいい。
 私が途中で先生をやめたのは生徒の挑戦を支えるより自分の挑戦を優先した結果と言えるだろう。世の中こういう人間ばかりになると、生徒の挑戦を第一に考えそれを支える人がいなくなる。
 だから、先生たちは自分の挑戦にはある意味慎重であったほうがいい。

 という考え方はいかがか。