教員希望者の減少が止まらない。
採用試験の倍率低下や欠員の問題は、すでに教育界だけの話題ではなく、社会全体の関心事となっている。
待遇改善や業務削減の必要性はもちろんであるが、問題の核心は、もう少し別のところにあるように思われる。
かつて教員という職業には、給与額や勤務条件だけでは測れない「見えない報酬」があった。
それは、社会からの尊敬である。文字通り「教師」は「師」であり、地域においても家庭においても、一目置かれる存在であった。
「先生はエライ」という言葉には、単なる権威主義ではなく、教育に携わる者への信頼と敬意が込められていた。
もちろん、昔の学校現場が理想郷だったわけではない。忙しさも責任の重さも、決して軽くはなかった。
それでもなお教職が魅力ある職業として映っていたのは、その苦労を支える社会的威信が存在していたからである。
給与は飛び抜けて高いわけではなくとも、教員であること自体が一つの誇りとなり得た。
ところが、今はどうか。
教員は「師」である前に、教育サービスの提供者として見られる場面が増えた。
学校は公共的な教育の場でありながら、保護者の目には時にサービス業の一種として映る。いや、もしかしたらサービス業としか見ていないのかもしれない。
授業の内容だけでなく、連絡の速さ、対応の丁寧さ、行事の満足度に至るまで、細やかな説明責任が求められる。また、時に、塾講師や民間教育サービスと比較され、「より分かりやすく」「より手厚く」という視線にさらされる。
その一方。
労働環境は厳しさを増している。
授業準備や採点、部活動、進路指導、保護者対応、会議、各種事務処理。
業務はどこまでも膨れ上がり、長時間労働は依然として深刻だ。精神的負担も大きい。
さらに、不祥事や学校トラブルが報じられるたびに、教員全体への視線は厳しさを増す。
日々の誠実な実践はほとんど報じられず、問題が起きたときだけ注目される構図の中で、現場は疲弊していく。
要するに、かつて教職を支えていた「尊敬」という無形の報酬が薄れたのである。
給料が並みで、長時間労働で、しかも社会的評価まで低下していると映る職業に、若者が強い憧れを抱きにくいのは当然ともいえる。
教員希望者減少の背景を、単なる若者の価値観の変化や待遇面だけで説明するのは十分ではない。
本質は、教職という職業の社会的威信の低下にある。学校教育を支える人材を確保するためには、業務改善や処遇改善とともに、教員が再び「師」として敬意をもって見られる社会をどう取り戻すかが問われている。そこに目を向けなければ、志望者減少の流れは簡単には止まらないだろう。

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