先日、仲間との会食の席で、たまたま学歴社会のことが話題になった。
 別にこのテーマについて議論しようと集まったわけではない。データを持ち寄ったわけでもなく、結論を出そうとしたわけでもない。食事をし、お茶を飲みながら、話の流れでそんな話になっただけである。

 ちなみに私以外は教育関係者ではない。大企業に勤める者もいれば、自ら起業した経営者もいる。いずれも50代である。それぞれの立場で30年前後、実社会を見てきた人たちなので、学問的な議論ではないにせよ、まったく現実離れした話でもないだろう。

 そこで「今の日本は学歴社会、あるいは学校歴社会なのか」という話になった。
 「そんなものはもう存在しない」と言う者はいなかった。
 もちろん、専門的な技術や技能、知識を武器に社会で高く評価されている人は大勢いる。それでも一般のサラリーマン社会などでは、いまだに「どこの学校を出たか」が一定の力を持っている。そのあたりは、ほぼ共通した認識だった。

◆そこで一つ、逆張りしてみた
 ただ、私はそこで少し違った見方を披露した。
 日本の学歴社会、より正確に言えば学校歴社会は、実は崩壊に向かっているのではないか。

 すると、「いやいや、まだまだ学歴社会だろう」という反応が返ってくる。
 そこで私が持ち出したのが「高学歴タレント」「高学歴芸人」である。
 最近、この言葉をよく耳にする。難関大学出身を売りにしてクイズ番組に出演したり、大学名そのものがタレントや芸人のキャラクターを説明する重要な要素になったりしている。
 一見すれば、これは学歴重視がますます強まっている証拠に見える。
 だが私は、むしろ逆ではないかと思っている。

◆「高学歴」と宣伝する必要がなぜあるのか
 もし学校歴の価値が昔と変わらず盤石で、誰もが疑うことなくその価値を認めているのであれば、ことさら「高学歴」と繰り返す必要はないだろう。
 東大卒、京大卒、早慶卒といった肩書が、それだけで当然の価値を持っているなら、わざわざテレビで強調する必要もない。

 その価値が以前ほど自明ではなくなってきたからこそ、改めて可視化され、商品化されている。
 と、これはもちろん、会食の席で思いつきを披露した程度の仮説である。
 「学校歴社会を守ろう」と誰かが意図的に仕掛けている、などと言うつもりもない。ただ、社会の中で学校歴の価値が揺らぎ始めた結果、メディアにとって「高学歴」という分かりやすい記号が、以前にも増して商品価値を持つようになったとは考えられないだろうか。

◆「高学歴芸人」という言葉の面白さ
 そもそも「高学歴芸人」という言い方自体が面白い。
 「高学歴大学教授」とはあまり言わない。「高学歴官僚」もそれほど聞かない。「高学歴医師」もだ。
 その職業と高い学校歴との組み合わせに、大きな意外性がないからだ。

 一方、「高学歴芸人」には意外性がある。
 かつてなら、難関大学を出た人は官僚、大企業、研究職、専門職などへ進むという、ある程度決まった進路イメージがあった。だから難関大学を出て芸人になることがニュースになった。
 ところが今は、難関大学を出て起業する人もいる。YouTuberになる人もいる。会社員を辞めてクリエーターになる人も、海外へ出て働く人もいる。

 学校歴と職業を一本の線で結ぶことが難しくなっている。

◆大学名が「人生の切符」ではなくなる
 学校歴社会が強かった時代には、難関高校から難関大学へ進み、大企業や官僚になり、社会的地位を得る。
 そんなモデルが確かに存在した。
 しかし現在は出口が無数にある。
 そうなれば大学名は、人生を決定する切符ではなく、その人を説明する数あるプロフィールの一つになっていく。

 東大を出た。それはもちろん立派なことである。
 だが40歳になった人を、「22年前に東大に合格した」という事実だけで評価するわけにはいかない。本来問われるべきは、その後何を学び、何を経験し、今どんな能力を持っているかだろう。

 学校歴社会の崩壊とは、大学名の価値が突然ゼロになることではない。
 大学名だけでは人を説明できなくなり、大学名だけでは将来を予測できなくなり、別の評価軸が次々と増えていくことではないか。
 そう考えれば、「高学歴芸人」の増加は学歴社会の隆盛ではなく、学校歴が特別な地位を失いつつある過渡期の象徴とも読める。

◆最後まで信じるのは学校かもしれない
 そして、この話を学校側から考えると少々皮肉である。

 高校は今なお、「東大○人」「国公立大○人」「早慶○人」といった大学合格実績によって、自校の教育力を証明しようとする。
 その一方で、「これからは学歴だけではない」「主体性や探究力が重要だ」「変化の激しい社会を生き抜く力を育てる」と語る。
 社会の側では学校歴の絶対性が少しずつ揺らいでいるのに、学校自身は相変わらず学校歴を使って自校の価値を示している。

 これも会食の席での雑談から出てきた話なので、結論を急ぐつもりはない。
 ただ、こんな見方もできる。
 もしかすると学校は、学校歴社会の最前線にいるのではなく、最後まで学校歴社会を信じ続ける場所になるのかもしれない。