去る3月16日、元川越高校校長・元県教育次長、宮嶋秀夫先生が99歳で永眠され、本日葬儀が行われた。
宮嶋秀夫先生は1924年(大正13年)7月1日、群馬県桐生市生まれ。
旧制桐生中学校、旧制浦和高校を経て東京帝国大学文学部国史学科に学ばれ、埼玉県高校教諭となった。
松山高校、浦和一女、戸田高校で教鞭をとり、草加高校、浦和西高校で教頭を務めた後、1974年(昭和49年)川口北高校の初代校長に就任された。
その後県教育委員会高校教育課長、同教育次長を経て、川越高校校長を最後に1985年(昭和60年)定年退職された。
退職後は埼玉県教育公務員弘済会などで長く活躍された。
◆うちの学校に来なさい
宮嶋先生と初めてお目にかかったのは1977年(昭和52年)である。
当時、宮嶋先生は校長在職4年目で53歳。
今思えば、ずいぶん若い校長だ。
私はこの年、教員採用試験を受けることになっていた。
であれば一度校長に会っておくのがいいだろうと、同校男子バレー部顧問の高附直樹先生が紹介してくれた。
なにせ50年近く前であるから細かい話は忘れたが、この時、事実上川口北高校への赴任が決まった。
もちろん採用試験を受ける前であるから、試験を通ったらの条件付きであるのは言うまでもない。
当時は生徒急増期であり、新設校が続々と作られた。
川口北高校もそのうちの一つである。
高校が大荒れに荒れていたのもこの頃だ。
新卒者は赴任校を選ぶことはできないため、多くの同期合格者は、こうした荒れる学校での勤務を命じられた。
同期の中には「毎日、戦場に出かけて行く気分」と言っている者もいた。
だが私は、宮嶋先生のおかげで、成長著しく雰囲気も落ち着いた川口北高校勤務となり、最初から教員らしい仕事にまい進することができたのである。
残念なのは、当の宮嶋先生が、私が赴任した翌4月に教育委員会勤務を命じられ川口北高校を去られたことである。
というわけで、私自身は宮嶋先生と同じ学校で勤務したことはない。
が、周りはすべて宮嶋先生の薫陶を受けた、いわば「宮嶋学校」の教え子たちであるから、そうした同僚、先輩たちを通じて宮嶋イズムの真髄に触れて行くのである。
◆50年前に二人担任制
最近、「二人担任制」の記事をよく見かけるようになった。
新しい取り組みなのだという。
そんなの半世紀前からあるぞ。
現に自分も経験してきた。
今は教員定数とクラス数の関係で維持できなくなったが、開校当初の川口北高校では宮嶋先生の方針で「正副なしの二人担任制」がとられていた。
全教員が担任を持っており、担任外という先生がいない。
最初に組んだベテラン先生は、「面倒な事務仕事は私が一切やるから、先生はできるだけ生徒と一緒にいてください」と言われた。
だから朝のホームルームなども、二人で交互に行くスタイルのクラスもあったが、私のクラスではすべて私一人が担当した。
その代わり事務作業(いわゆる雑務)は一切なし。
これは助かった。
面談なども私が主だったが、生徒の方も心得たもので、「これは新任に相談しても埒が明かんだろう」という話は、ちゃんとベテラン先生の方に持って行くなどして、上手く使い分けていた。
二人担任制は全教員が必ず担任を持っている体制なので、お客さん的な(部外者的な)先生がおらず、全員が担任の立場で考える。
だから、共通理解も得やすく、協力体制もとりやすかった。
開校から日が浅く、何かと問題をかかえる生徒が多かった時代、この二人担任制は大いに効果を発揮した。
◆職員会議三原則
宮嶋先生は職員会議三原則なるものを掲げられた。
今は職員会議のあり方もだいぶ様変わりしたが、50年前の職員会議は長時間にわたることも多く、きわめて非能率であった。
そこで宮嶋先生は、次の三つの原則を示された。
1 原案尊重
2 審議を尽くす
3 採決しない
職員会議では、分掌・学年・教科などからさまざまな議案(原案)が提出される。
それらは学校全体を視野に入れながら各部署で練られ、提出されたものだ。
だから、最大限尊重せよ。
つまり、よほどのことがなければそのまま通せ。
原案をただ黙って通すというのではない。
なぜなら、練りに練った原案であっても、疑問点や問題点は必ずある。
だから審議を尽くせ。
ただし、その際は、原案の修正を提案者自身に求める。
学校では、会議をする人と、その結果を執行する人がイコールである。
両者が異なる場合は、時間の関係で採決に頼らなければならないこともあるが、会議をする人が即執行者である学校では合意を得ることが最善である。
原案尊重、審議を尽くすの延長線上にあるのは、できるだけ採決をしないという考え方である。
校長が交代すると方針が一変することも多いが、川口北高校においては、少なくとも私が在職した10年間、この原則は守られた。
◆チーム川北
「チーム川北」は最近の川口北高校の合言葉であるようだ。
宮嶋先生は、教員はカネを扱うなと言われた。
今は振り込みなど決済手段が進化しているが、半世紀前の学校は、先生が現金を扱う場面が数多くみられた。
そこで宮嶋先生は、「専門家(プロ)に任せよ」と言われた。
つまりカネのことは事務職員に任せなさいというのだ。
重要なのは、事務職員を専門家(プロ)と言い切ったことだ。
こっち(先生)が教育のプロなら、向こうは事務仕事のプロだ。
リスペクトせよ。
とは言われなかったが、意味はそういうことだ。
何をやるのでも、教員も事務職員も業務職員も実習助手もみんな一緒で、そこに境目はなかった。
正に「チーム川北」だ。
宮嶋先生の精神が今もなお息づいていることを嬉しく思う。
そうそう。
余談だが、先日川口北高校を訪れた際、たぶんその昔私も使ったであろう背の低い職員用下足箱が今もなお使われていることに驚いた。
古さもさることながら、背の低さが厄介だ。
だが、これは玄関を広く明るく見せるための宮嶋先生のアイディアである。
【追記】
言い合忘れたが、一昨日の記事で書いた「自分の意見が通るようになったら異動せよ」は宮嶋先生の教えである。
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