公立高校が「建前」に固執し、受験生・保護者のニーズに正面から向き合うことを拒み続けたとき、教育の世界にはどのような構造変化――あるいは歪み――が生まれるのだろうか。
授業料無償化という政策は、一見すると格差を縮小する装置のように見える。しかし、実際には格差の形を変えるだけかもしれない。
◆「情報」と「意識」による新たな格差
これまで高校選択の格差は、主として経済格差として語られてきた。「お金があるから私立、ないから公立」という単純な構図である。
しかし授業料が無償化されると、格差の中身は別のものへと変わる。鍵になるのは「情報への感度」と「教育への意識」だ。
授業料負担が消えたことで、早い段階から私立の「手厚さ」(ソフト面の充実)に気づく家庭は、迷わず私立へ流れるだろう。つまり、教育に対する意識の高い層が公立から完全に離脱する動きである。もっとも、その受け皿となれる私立と、そこまでの魅力を備えられない私立とが色分けされるのも確かだ。
一方で、情報収集に疎い層や、教育に対して受動的な層だけが、公立に残る可能性が高い。「とりあえず公立」という思考停止型の選択は、今後も一定数存在し続けるだろう。
こうして学校間格差は、「家庭の経済力」よりも「親の意識の差」を強く反映するようになる。結果として、公立高校が多様性を失い、特定層が集中する場所へと変質してしまう危険性がある。
◆私立は量の確保から質の競争へ
無償化によって人気私立の志願者は増える。そうなれば入試難易度(偏差値)はさらに上昇し、私立の募集戦略は「量の確保」から「質の向上」へと軸足を移すだろう。
もし教育内容の充実が伴わなければ、人気のない私立はやがて公立と同じ苦境に陥る。私立の世界でも淘汰は避けられない。
一方で、私立の選別から漏れ、さらに再編で公立が減った地域では、別の問題が生まれる。学力や意欲に課題を抱える生徒たちが、「通える範囲に学校がない」という状況に置かれる可能性がある。いわば「高校教育の砂漠化」である。
行政が効率化を優先しすぎれば、本来は学びの権利を保障するはずの公立が、最も教育を必要とする層を切り捨てるという逆説的な結果を招きかねない。
◆無償化がもたらす最悪のシナリオ
授業料が無償になったことで、私立側は「授業料以外の名目」で費用を徴収しやすくなった。今後は、無償化で浮いた家庭の予算を狙い、より高額で付加価値の高い教育オプションが提示されるだろう。
そうなれば、建前に縛られる公立との差はさらに広がる。
結局のところ、授業料が無償になっても、「質の高い教育」を購入できるかどうかという差は残り続ける。むしろ可視化され、拡大する可能性すらある。
最悪のシナリオは、公立高校から「向上心のある生徒」と「それに応えようとする意欲ある教員」が同時に抜けていくことである。正対を拒み続けた公立に残るのは、私立に行けなかったという敗北感を抱える生徒と、前例踏襲の定型作業に埋没した教員、そして活力を失った地域コミュニティかもしれない。
行政が「定員割れは再編の口実になる」と静観している間に、公立というシステムの“中身”だけが静かに朽ちていく。そして、いざ再編しようとしたときには、すでに「救うべき価値のある組織」が残っていない――。そんな皮肉な結末だけは、何としても避けなければならないだろう。

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