入学式式辞集。まとめに時間のかかる作業なのでもうしばらくお待ちいただきたい。
 つなぎに、こんなニュース。

乃木坂46、日本大学入学式にサプライズ登場「伝説すぎる…」 先月の卒業式には日向坂46が登場で話題

 ふーん。じゃあ次は櫻坂46かな。
 よく知らんけど。

◆演出された「サプライズ」
 入学式の乃木坂46も、卒業式の日向坂46も、会場はライブさながらの熱狂に包まれたという。
 そりゃあ、そうだろう。

 もちろん、これらが高い話題性を狙った演出であることは明白だ。
 「サプライズ」と銘打ちつつも、マスコミがこれだけ速やかに報じている点を見れば、そこには特定メディアとの事前の調整や、戦略的な情報解禁が存在すると見るのが自然だろう。
 だが、ここでの本質はメディア戦略の是非ではない。入学式や卒業式という場が、本来の「教育活動」の枠を越え、一種のエンターテインメント、あるいは巨大なプロモーション・イベントへと変質しているという事実である。

 こうした傾向は、特に大学において顕著だ。
 高校までであれば、これらの式典は学習指導要領にも定められた「特別活動」の一環、すなわち「儀式的行事」としての教育的意義が重んじられる。
 しかし、大学においてはもはや、式典は「思い出作り」や「話題性」を追求するお祭りと化している。
 学長による式辞も、華やかなタレントのパフォーマンスの前では、もはや「前座」である。

◆外部へ向けた「メッセージ装置」へ
 変貌を遂げているのは演出だけではない。
 これは昨日も書いたことだが、式典で語られる「言葉」そのものの役割も変わりつつある。
 かつての式辞や訓話は、目の前の学生に向けた、教育者としての直接的な語りかけであった。
 しかし、SNSや学校ホームページを通じて情報が瞬時に拡散される現代において、校長や学長の言葉は、もはや「内輪のメッセージ」ではあり得ない。
 それは、地域住民や保護者、さらには潜在的な入学希望者や社会全体といった「ステークホルダー」に向けた、学校の教育方針やブランドイメージを対外的に示す「メッセージ装置」へと変化した。
 今の時代の校長先生は、目の前の若者の心に届く言葉を選びつつ、同時に、外部の広範な読み手にどう受け取られるかという広報的視点をも持たねばならない。(ご苦労様)

◆主役は誰なのか
 ここで立ち止まって考える必要があるのは、式典がお祭り騒ぎになればなるほど、そして芸能人がステージの主役になればなるほど、本来の主役であるはずの新入生や卒業生は、主体的な「当事者」から、ただの「観客」へと格下げされる可能性があることだ。

 小中学校や高校において、依然として厳粛さが求められるのは、それが成長を自覚し、自らの足で次の一歩を踏み出すための節目だからである。
 芸能人のパフォーマンスに歓喜し、盛り上がることは悪いことだとは思わないが、その興奮が醒めた後に残るものが「有名人に会えた」という記憶だけだとしたら、それは教育的な「儀式」としては空虚と言わざるを得ない。

 時代とともに形が変わるのは世の常だ。古い形式に固執することが正解とは限らない。
 しかし、主役はあくまで、その場に立つ卒業生や新入生一人ひとりであるべきだ。
 と、昭和生まれの老人は考える。