着るものがない。金がないからだろう。うん、それもある。
 ランニング用だったらいくらでもあるんだがなあ。Tシャツなんぞ大会に出る度に参加賞でもらってくるもんだから、まだ一度も袖を通してないやつがたくさんある。これからも増え続けるだろうから、死ぬまで困らない。登山用も、まあまあ持ってる方だ。

 だが、仕事でもなく登山やランニングでもない場面となると、あれ、今日オレ何を着るの?となってしまうのが、昭和生まれの悲しいオジサン(おじいさん)なのである。
 普段着が無いのだ

 プライベートでもフォーマルはいいんだよ。礼服もダークスーツも一揃いあるし、タキシード着用と言われれば蝶ネクタイだってウィングカラーのワイシャツだって何でも来い、だ。
 ただ、カジュアルがいけない。
 おめかし以下、近所のスーパーに買い物以上。その中間にいろいろあるでしょう。あるはず。

 これはつまり、遊んで来なかったからだね。場面が少な過ぎるんだよ。場数を踏んで、いろいろな人の服装を見ていれば、なるほど、こういう場面ではこういう服装が合ってるんだと学習するわけだが、その機会がない。
 着るものがない、つまり着て行くものが分からないというのは、遊び方を知らないというのと同じことなんだ。

 何をちっちゃいこと言ってんだ。俺は着るもんなんぞにこだわらんぞ。人間は中身だ。
 羨ましいな。
 だが、生憎私はそういう大物ではなく、ちっちゃいことに悩む人間なのだ。

 今は、自分の意思とほぼ関係なく、フェイスブックやツイッターやインスタグラムなどSNSで画像がさらされちゃう。電車や街中で見ず知らずの人に見られるんじゃなく、知り合いに、だよ。

 働き方を知っているというのと同じくらい、遊び方を知っているということが重んじられる。これが現代の価値観だ。
 オンだけじゃなくオフでも一目置かれるようにならなきゃいかんな。手遅れ感は否めないが努力はしてみよう。