京都で見かけた記事だが全国配信されていた。学級通信に関わるニュース。
 「担任の先生、33年がかりで学級通信 教え子「まるでタイムカプセル」(京都新聞)
 学級通信を書き続け学年末に冊子として配布していた先生が、人事異動の関係で多忙となり、最後に担任した生徒(小学校だから児童)への配布が未完に終わっていた。
 そこで退職を機に完成させ、かつての教え子に配布したというお話。

 それほど珍しい話ではない。
 ただ、この先生は市の教育長にまでなった方で私などとは立派さが違うものの、年齢が69歳と同い年だったので、ちょっとばかり興味を持ったという次第だ。
 
 33年前に担任した当時の小学4年生ということだから、今43歳。ちょうど小中学生の子供がいてもいい年頃だ。
 汚い字で書いたろくでもない文章に先生がコメントを付けて学級通信に載せてくれる。
 「なんだよ、お父さんくだらないこと考えてたんだな」
 「字が汚いって、自分も同じだったじゃん」
 などと家庭で盛り上がれば、それも楽しい。

 私は担任はよくやった方だと思うが、学級通信というのは発行した経験を持たない。
 それは高校教員だったからかもしれない。
 小中学校と比べ、担任と生徒との関係性は希薄だ。
 部活の生徒は顧問との結びつきの方がはるかに強いし、受験指導で頼りになるのは教科の先生のだから、「担任?誰だっけ」という生徒も多いのだ。

 もちろん、クラス全員を責任もって指導しなきゃいかんという意識はある。
 だが、「オマエに干渉されたくない」という生徒もいるし、半分大人の高校生に対し、クラスのまとまりだとか団結を殊更に言うのも何だから、まあ付かず離れずの関係でいいかというのが自分自身のスタンスでもあったので、学級通信は考えてもみなかった。
 ただし、そう言っては何だが、先生やめて原稿書いて飯を食っている私だから、やれと言われれば出来たんじゃないかと思う。

 私の現役時代。つまり今から30年以上前なのだが、あの頃はプリント1枚作るにもえらく手間がかかった。
 パソコン、ワープロないから全部手書き。
 コピー機は事務室には設置されていたが、もっぱら事務作業用で教員が使うことはなかった。
 あまりにも古い話で細部は覚えてないが、たしか手書きの原稿をいったん印刷用フィルムみたいなものに転写して、それを輪転印刷機にかけて更紙に印刷する。
 そんな感じだった。
 今ならパソコンからデータ送れば、さっさと印刷まで運べる。

 マニュファクチャの時代では不可能だった量産が可能になった。
 今の先生方がやたらとプリントを作るのは、そのせいかもしれない。
 そして、今はさらに時代が進み、紙から電子データになった。

 短時間かつ低コストで大量生産が可能というと産業革命が想起されるが、それほど大袈裟ではないにしろ教育界も技術革新(イノベーション)が進んでいるのは確かで、それ自体は是としよう。
 だが、簡単に作れることが仇になり、不要不急のものまで量産してしまう危険性も考えておかなければならない。
 「先生、そのプリント、本当に必要ですか?」
 「そのスライド、それがないと説明できませんか?」

 私はどちらかと言うと新しいものには飛びつく方だったし、今でもその傾向がある。
 だから、「作れるから作ってしまう」「用もないのに作ってしまう」という危険性は自身へ向けた戒めでもある。
 精選というのは、いつの時代にも求められる考え方である。