私立高校には、その学校の卒業生が教員として勤務しているケースがしばしば見られる。
 公立高校の場合、教員は学校が独自に採用するわけではなく、人事異動も教育委員会が行うため、私立ほど多くはない。ただ、歴史のある学校には一定数の卒業生教員、いわゆるOB教員を配置する慣行のようなものが、実態として存在するように見える。

 もちろん、OB教員を採用したり配置したりすること自体が悪いわけではない。学校の歴史を知り、建学の精神や校風を理解し、良き伝統を次の世代へ伝えていく人材は必要である。卒業生とのつながりを保ち、同窓会との橋渡しをする役割も期待できる。何より、母校に対する愛着と誇りは、仕事への強い動機となり得る。

◆継承者であって、改革者ではない
 一方で、OB教員は一般に大胆な改革には不向きである。私は、彼らを「高性能のブレーキ」と呼んでいる。

 彼らは「攻めの人」というより、どちらかといえば「守りの人」である。伝統の継承者ではあっても、必ずしも改革の推進者ではない。新しいことを始めようとするとき、従来のやり方を大きく変えようとするとき、慎重論を唱え、場合によっては反対に回ることが多い。

 それには理由がある。
 OB教員は、その学校が長年行ってきた教育の成果を自らの姿によって具現している人々である。自分が受けてきた教育、自分が過ごした学校生活、恩師から教えられた価値観を肯定しているからこそ、母校の教員になったとも言える。

 したがって、学校改革は、彼らにとって単なる制度変更ではない。自分が受けてきた教育を否定されること、さらには自分自身を否定されることのように感じられる場合もある。そのため、改革に対して本能的にブレーキを踏むのである。

◆ただし、ブレーキは必要
 ただし、ブレーキは悪ではない。むしろ、車にはなくてはならない装置である。アクセルだけでブレーキのない車に乗りたいと思う人はいないだろう。改革を急ぐあまり、学校の歴史や文化をすべて古いものとして切り捨てれば、学校は一時的に勢いを得ても、やがて自らの立脚点を失う。

 問題は、OB教員がいることではなく、その比率と影響力である。仮に50人の教員集団の中に10人のOB教員がいれば、全体の2割を占める。これは相当な勢力であり、意図するかどうかにかかわらず、一つの派閥や強力な意思決定集団になり得る。
 では、何人までならよいのか。私は感覚的には1割程度が「功が罪を上回る」限界ではないかと考えている。ただし、この数字に客観的な根拠はない。重要なのは人数そのものよりも、OB教員だけで学校の価値観や意思決定を支配しないことである。

◆守り過ぎでは学校が動かなくなる
 伝統を重んじる力が強すぎれば、学校は前に進めない。社会や中学生、保護者の価値観が変化しているにもかかわらず、「うちの学校は昔からこうだ」と言い続ければ、やがて時代から取り残される。

 しかし、改革の名の下に、昔とは似ても似つかない学校にしてしまえば、卒業生の支持や支援を失う可能性もある。卒業生は、学校にとって強力な応援団である。寄付、広報、進路支援、地域とのつながりなど、さまざまな場面で学校を支えてくれる。その人々が「自分たちの母校ではなくなった」と感じれば、支援を得ることは難しくなる。

 ときどき、「OB教員の反対で新しいことができない」と嘆く非OB教員がいる。そういう先生方には、相手を単なる抵抗勢力と見なさないようにしてほしい。ブレーキを外すことを考えるのではなく、なぜブレーキを踏んでいるのかを理解することが先である。

 改革する側には、何を変え、何を残すのかを明確に示す責任がある。「伝統を壊すのではない。伝統を次の時代に生かすために変えるのだ」と説明しなければならない。OB教員が守ろうとしている価値の中には、改革後も残すべきものが必ずある。

 また、OB教員の側にも、自分の母校愛と現在の生徒の利益を混同しない姿勢が求められる。学校は卒業生の思い出を保存する博物館ではない。今そこにいる生徒と、これから入学してくる生徒のために存在する教育機関である。

◆進むべきときは、ブレーキから足を離す
 アクセルとブレーキのどちらが重要かという議論には意味がない。両方が必要だからである。
 大切なのは、進むべき方向を定めるハンドルと、道路の状況を見極める運転手の力量だ。

 OB教員を排除する必要はない。むしろ、高性能のブレーキとして大いに働いてもらえばよい。ただし、ブレーキを踏み続けることが学校への忠誠だと考えてもらっては困る。必要なときには止める。しかし、進むべきときには足を離す。その判断ができてこそ、真の意味で母校を支えるOB教員と言えるのではないか。