本日、春日部で塾の先生対象の講演会。人数も少なく、勉強会ないしはゼミといった趣。

 主たるテーマは、入試に関する公開情報をどう分析するかであったが、広告の必要性についても時間を割いた。
 私が公立高校教員を辞め、次に入ったのは広告業界なのである。専門家と名乗るほどの知識や経験はないが、強い関心を持っている世界だ。

 うちは派手な広告はしない
 実体は、「しない」のではなく、資金の関係で「できない」のではないかと思ったりもするが、それぞれポリシーがあるのはいい。
 
 派手にできないなら地味にやればいい。テレビや新聞といったマスメディアを使わなくても、今はSNSなどそれに代わる手段がいくらでもある。しかも無料または超低コスト。
 いずれにしても、広く告げるという本来の意味での広告はぜひやって欲しい。

 自分たちはいい指導をしている。
 誰だってそういう自負はある。それがないなら即刻廃業したほうがいい。

 もし、誰にも負けないすばらしい指導をしているのであれば、そのことを出来るだけ多くの人に知ってもらうべきだ。なぜなら、それを知ることによって救われる人がいるかもしれないからだ
 自分にピッタリの塾や、自分を伸ばしてくれる塾の存在を知らないのは、生徒や保護者側の問題か? たしかに調べが足りないというケースもある。だが、知らせ方が足りない塾側にも問題があるのではないか。
 そのように考えてみよう。

 塾はそのまま学校という単語に置き換えることができる。
 いい指導をしていることを世に広く知らしめるのは、人を救う行為となり得る

 悪貨は良貨を駆逐する。
 元来は経済学の言葉だが(グレシャムの法則)、偽ブランドが横行して本物が売れなくなるような現象を指して言うこともある。

 本物が黙っていると、ニセモノに市場を席巻されてしまいますよ。