大阪府が進める府立高校の統廃合政策において、いわゆる「3年ルール」というものが議論の的となっている。
その内容は至ってシンプルだ。「3年連続で定員割れし、かつ改善の見込みがないと判断された学校は、募集停止(廃校)の対象とする」というものである。
市場原理や経営の視点から見れば、このルールは一見、合理的で明快な基準に映るかもしれない。
限られた経営資源を有効活用するため、需要のない施設を畳むのは、ビジネスの世界では常識だ、いや、鉄則だ。
しかし、この「経済効率」という刃を、そのまま教育の現場に突き立てることは、あまりに危うい。
それは、単なる学校の整理統合にとどまらず、その地域全体の「死」を招きかねないからだ。
◆地域から「若者の気配」が消えるということ
一つの学校が地域から消える。
学校がなくなるということは、その街から「若者の気配」が消えるということだ。
朝夕の通学路に響く声、コンビニエンスストアや駅前で見かける制服姿、文化祭や体育祭の活気。これらは、地域が「生きている」ことを示すサインである。若者がいなくなった地域は、急速に色彩を失い、静まり返る。一度その気配が途絶えれば、現役世代の家族がその地に踏みとどまる理由は失われ、転入を考える世帯も二の足を踏む。
公立高校の苦境を、単なる「人気がない学校の自業自得」として片付けることは、地域そのものを見捨てることに等しい。
◆「教育コスト」という足かせ
学校再編の議論の裏には、常に国や地方自治体が抱える「教育コスト」という切実な問題が横たわっている。
最もコストパフォーマンスが悪いとされるのは、離島や中山間地域、過疎地に位置する「地域の高校」だ。
生徒数がどれほど減少しようとも、校舎を維持し、最低限必要な科目を教えるための教員を配置し、事務組織を動かすには、一定の固定費がかかる。
生徒一人あたりに投じられる公費を算出すれば、都市部の大規模校に比べて、地方の小規模校は圧倒的に「高コスト」な存在となる。
つまり、純粋に経済合理性の物差しだけで測れば、それらはすべて「赤字部門」であり、真っ先に整理の対象となる。
だが、ここで立ち止まって考えなければならないのは、教育とは、そもそも効率を最大化するために存在する事業なのかということだ。
◆学校が担う「隠れたミッション」
学校には、「隠れたミッション」がある。それは「地域を守る」という役割だ。
農業、林業、水産業、あるいは地場産業を支える工業や商業。こうした実社会の基盤を支える人材を育成する専門高校や地域校は、確かに維持コストがかさむ。しかし、これらを「非効率だから」と切り捨てる行為は、自分たちが立っている社会基盤そのものを自ら破壊するに等しい。
少子化が避けられない現実である以上、高校の統廃合や再編が必要であることは、誰もが理解している。だが、その判断基準を「生徒数」という単純な数字だけに委ねるのは、あまりに短絡的だ。特に、代替機能が存在しない地方の小規模校を、都市部の学校と同じ「数の論理」で裁いてはならない。
◆学校は地域機能の「最後のピース」
人口が密集し、公立・私立が入り乱れる都市部であれば、再編によって機能を集中させ、特色化を図るという議論も成立するだろう。一校が消えても「若者の流れ」が完全に止まることはないからだ。
しかし、地方において学校が消えることは、加速度的な空洞化を意味する。教育は、医療や交通と並ぶ、地域維持に欠かせない重要なインフラである。学校がなくなれば、その地域はもはや持続可能な「コミュニティ」としての機能を失い、崩壊へと向かう。学校は地域の知の拠点であり、文化の拠点だ。時には災害時の避難所となり、時には地域の雇用を支える場ともなる。
「どの学校をなくすか、どの学校とどの学校をくっつけるか」という議論は、あくまで手法の話に過ぎない。
本来議論されるべきは、その学校が地域においてどのような「価値」を創造しているかである。
もちろん、税金で運営される公立学校である以上、納税者の理解を得るための一定の合理性は必要だ。
しかし、「人気がないから廃校」という結論は、あまりに乱暴だ。学校を失った地域が、どれほど大きな代償を払うことになるか一度考えてみたほうがいい。

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