昨日書いたように、35人学級は基本的には良いことだと思う。全学校全学級が35人編成になるという話ではなく、結果的には20人台学級も多く出現するわけだし一歩前進ではある。
 40人から35人に減ると、たぶん先生方は教室に入った瞬間、「少ないな」と分かると思う。それほどの違いだ。
 だが、それによって先生の負担が劇的に減るかというと、それはないだろうと思う。

 1時間の授業のために要する教材研究(授業の準備)は、40人でも35人でも基本的に変わらない。
 試験のマル付けやら、諸々の事務作業も、ちょっとは楽になるという程度だ。
 1学年の教員数や全校の教員数が増えれば、業務によっては負担軽減にはなるが、これも劇的ということにはならないだろう。

◆教員の働き方とは別問題
 つまりこの政策は、児童生徒の学力向上や、いじめや不登校への対応などで一定の効果は期待できるとしても、いわゆる「教員の働き方改革」という観点からは利するものはほとんどないとみるべきだろう。
 私はそのように理解している。
 むろん、だから40人でもいいと言いたいわけではない。
 40人が35人、35人が30人となるのは望むところだ。

 しかし、人数が減った分、濃くて、密で、きめ細かな指導が当然のこととして要求される可能性もあるわけで、そうなると負担軽減どころか負担増大につながりかねない。
 また先生は、例えばの話、人数が減れば1人10分の面談を20分にしてしまうものだ。
 要求があろうがなかろうが、自らそうしてしまう先生が多いだろう。

 少人数学級実現は、教育的には好ましいとしても、それと「教員の働き方」とは別問題である。

◆要求が増える中で、どう仕事を減らすか 
 私はかつて公立高校教員だった。
 今は外から学校や先生を見ている。
 外と言っても、かなり頻繁に授業や行事や部活の現場を接近戦で見ているわけだが、そうした中、「今の先生方は大変だな、こんなことまでやるのか」と思うことがしばしばである。

 その一方、「今の先生方はそこまではやらないんだ」と思う場面はきわめて少ない。
 引き算無しの足し算だけの世界。
 そして、そこまでやっても「先生は何もやってくれない」とクレームの嵐、要求の無限連鎖。
 よく死なずにやってるな。
(いや、実際死んでる先生もいる)

 学校は(先生は)そこまでやらなくていい。
 いま現在学校が行っている業務のいくつかについて、児童生徒・保護者側と学校側とでそのような合意ができればいいが、あまり期待できない。
 一般的に、いったん受けた要求はデフォルト(標準設定)となり、減ることはないからだ。
 中には、「勉強だけ教えてくれればいい」という有難い意見を言ってくださる方もいるが、たぶん少数派であって、全体的なコンセンサスに至らないだろう。

 せめて今後新たな要求は一切受けませんと言いたいところだが、世の移り変わりと共に、次々と新たな要求が押し寄せるだろう。
 
 だとすれば、学校が引き受ける業務を減らすということを理想としながらも、現実には減らせないという前提に立ち、業務改善・業務改革に取り組むしかないだろう。
 つまり、要求のさばき方、処理の仕方で乗り切るのである。

◆委託や外注という考え方を進める
 私自身は経験ないが、その昔、学校には宿直というのがあった。
 要は夜警さんだ。
 それがガードマンになり、機械警備になって消滅した。
 つまり、内製から外注、機械化というルートを辿り、業務改善・改革に至った。

 内製というのは、企業ではよく使われる言葉で、外部に委託・外注せず、すべて自社内で製造・制作することだ。
 内製のメリットは様々あるが、大きなものはコスト削減効果だろう。
 当然だが社外に金が出ていかない。
 社員が給料の範囲でやる。

 学校が、委託費や外注費が出ないという理由で、このような内製化を続けている限り、先生の業務は際限なく増えて行く。
 「定額働かせて放題」などという言葉が世間で飛び交っているが、内製化がその温床となっている可能性がある。

 学校において委託や外注を進めたい。
 委託できることは極力委託し、外注できることはできるだけ外注する。
 費用はかかるが、これにより時間は大幅に節約され、精神的負担も減ずる。

◆先生自身の発想転換も必要
 委託や外注が進まない一因は、先生方自身の考え方にもある。
 何でも自分でやりたがる。
 たぶんこれを言うと、先生方は気分を害されると思うが、「全能感」から脱却できていない方が結構いらっしゃる。

 私の会社のことを少し話させてもらう。
 わが社では動画の制作とか、HPやパンフレットの制作などが業務として行っているわけだが、学校側から専門家と称して情報の先生や美術の先生が登場してくると話が途端に面倒くさくなる。
 まあ自称専門家を名乗るだけあって、基本用語ぐらいは理解している。
 でも、その程度でプロと渡り合おうとする。そこが今言った「全能感」というやつだ。

 趣味で動画を作ってるのと、他社と競いながら何百、何千時間とカメラを回しているプロではそもそも次元が違うのだから、全部任せなさいよ。
 と言っても、それができない。
 たぶん自分も教員時代そうだったと思うので、他人のことばかり言えないのだが、反対サイドに立ってみて、愚かさがよく分かった。
 若気の至りとはいえ恥ずかしい。

 私は先生方にお願いする。
 全部こっちでやりますから、浮いた時間で生徒と遊んでてください。

 丸投げというと言葉が悪いが、学校側がどんな球を投げてきても、受け取る人間は必ずいる。
 何なら授業だって受け取ってみせる。
 何でも自分で抱え込もうとせず、そういう民間の力を使うという発想に立ってもらいたい。

◆業務を仕分けする
 私は学者や研究者ではないので、大ざっぱな言い方をするが、先生の業務は大きく二つに分けられる。
 一つは教育的な仕事。
 もう一つは非教育的な仕事。
 非教育的とはどうも響きがよくないが、直接生徒に関わらない、いわゆる事務的な作業、学校用語で言うところの「雑務」と考えてもらえばいい。

 教育的な仕事とは、目の前に子供がいる場面を想像してもらえばいい。
 これは正に先生の本務であって、サポートを受けることはあっても委託や外注にはなじまない。
 そして合理化することが難しい。

 一方、非教育的な仕事は、巡り巡って子供のためになるとしても、直接には子供と向き合わない。
 これは費用の制約はあるにしても、委託や外注の道を探るべきで、徹底して合理化を図っていい仕事だ。
 まあ、その中間にグレーゾーンはあるかと思うが、一度このような仕分けをやってみるといいだろう。

 先生を増やすための予算も重要だが、その分だけ先生全体の仕事が増えたのでは何にもならないから、業務の改善・改革、合理化のための予算というものも厳しく要求して行かなければならない。

◆スタッフ増強で業務分散
 学校内で起こることはすべて先生が対応し、処理するというのでは体がいくつあっても足りない。
 電話対応が大変なら電話番を雇えばいい。
 事務仕事が負担なら事務スタッフを雇えばいい。

 そうやって、先ほど言った非教育的な仕事をどんどん手放して行く。
 子供には直接関係ないので、合理化の弊害はない。あっても少ない。
 
 学校には、先生以外にどんなスタッフが必要なのか。
 それによって、教育内容がどのように深まり、先生の負担がどれくらい軽減されるのか。
 そういう議論があまり行われていないように思われる。
 議論がされなければ予算の話にはならない。

 少し長くなってきたので今日はこれくらいにするとして、ざっとまとめておこう。
 少人数学級は好ましいからさらに進めてもらって結構。
 ただし、それは教育的効果は期待できても、教員の負担軽減には直接的な効果が少ないと考えられる。
 必要なのは業務改善、業務改革である。
 だがそのためには予算が必要であるから、それを強く求める世論を形成しよう。
 だいたい、そんなところだ。