お盆なので、読者の皆さんも活動を休止しているらしく、ブログ閲覧数が激減している。
 毎年の現象だ。

 こちらとしても学校が休みのこの時期、特にお伝えするようなトピックスもない。
 なので、ただの思いつきで字数を稼ぐとしよう。

◆頻繁に「自己嫌悪」に陥るが
 皆さんは、どんな時に自己嫌悪に陥るのだろうか。
 知り合いの中には、そういう感情を一切持たない人がいるが、それはそれで幸せなことであり、羨ましくも思う。
 だが、私の場合、かなり頻繁に自己嫌悪に陥る。

 辞書的な意味は「自分が嫌いになる感情」である。
 なるほど。そうなのか。
 とすると、、いまここで言おうとしている「自己嫌悪」は、そこまでのものではないな。
 この年齢になると、自分を好きになったり、嫌いになったりという感情はすでに失っている。

 では、どう呼ぼうか。
 「自己嫌悪」に陥る時ではなく、「一人反省会」をする時とでも言い換えるか。

◆どんな時に「一人反省会」をするか
 「一人反省会」する機会が最も多いのは、経験談を語ってしまった時である。
 以前にも似たようなことを書いたと思うが、「経験とは、本人にとっては宝物だが、他人にとってはゴミ」である。

 「な。いい話だろう」
 そう思っているのは語っている本人だけで、聞いている方にとってはどうでもいい自慢話にすぎない。
 自分が聞き手に回っている時は、他人の経験談など聞きたくないのだが、語り手になった途端、どうしても語りたくなってしまう。
 困ったものだ。
 で、年がら年中、「いかん。また、ゴミを押し付けてしまった」と、後になって「一人反省会」を開くのである。

◆経験談は説得力を弱める
 「自分にも経験があるが・・・」と補足すると説得力が増すように感じられるが、それは錯覚である。
 経験が説得力を持つのは、どこからどう見ても希少な体験であり、そのことを聞き手側が認識している場合だけである。

 例えばの話、若田光一さんみたいな人が、「無重力状態において人間は・・・」と話し出したら、説得力は爆上がりとなるわけである。
 なぜなら、聞き手の誰もが、この人が何度も宇宙に行っている人だと認識しているからだ。
 
 経験談を語っていいのは、こういうケースだけで、「自分にも経験があるが・・・」などと前置きが必要な時点で、ゴミなのである。
 説得力が増すどころか、不信感や嫌悪感を増幅してしまう。

 よく言われることだが、どうしても経験談を語りたい衝動に駆られたら、成功談ではなく失敗談を語ったほうがいい。
 これもゴミには違いないのだがペットボトルくらいの価値はある。
 ただし、これも程度問題で、自虐と自慢は紙一重であるから濫用は禁物だ。

◆他人の経験として話す
 どうしても経験を語りたい場合の一つの方法は、他人の経験として話すことだ。

 こういう経験をした人がいる。
 そういう人の話を聞いたことがある。
 という具合に、自分を出さず、他人事として話す。
 そうすれば、自慢話感がなくなる。

 「私には経験がある」と語り出すと、聞き手は「それなら私にだって似たような経験がある」と、下手をするとマウントの取り合いになってしまう。

 重要なのは経験から導き出されるアイディアであり、解決策なのである。
 ところが、語り手と聞き手がそれぞれ自分を前面に出すことにより事の本質が見えづらくなる。

 言い方をかえれば、経験を生かすためには、それを客観視し、一般化するという作業が必要だということだ。
 そこを省いて主語を私として話してしまうと、かえって反発を招き、何の解決策も見いだせない結果となる。

 若い人は経験を語るほど長く生きていないので心配はないが、私のように長く人間をやっていると、それなりに多くの経験を積んでいるから、どうしてもそれを語りたい衝動に駆られる。
 むろん、それがあって今の自分があるわけだから、自分自身の中で肯定するのは構わない。
 だが、他人にとってそんなものはクソかゴミ同然だ。

 というような「一人反省会」を日々繰り返している。