文武両道はよく知られた言葉だが、それに対し「文武不岐」という言葉がある。
この「文武不岐」を建学の精神としている学校としては、埼玉県では松山高校が有名だ。
上尾高校もこれを校訓としている。
さて、「文武両道」と「文武不岐」、この二つは同じ意味かというのが今日のお題だが、まあ、どっちでもいいような話だ。
「文武不岐」の「不岐」であるが、「岐」は「岐路」「分岐」の「岐」、すなわち「分かれる」ことであるから、それに「不」がつけば「分けない」「分けられない」となる。だから「文武不岐」は学問と剣術の修業は別々のものではなく一体のものであるというような意味となる。
それに対し「文武両道」はどうか。
文と武は別物で共通点はあまりない。むしろ対立的な立場にある。しかし、このかけ離れた二つをきわめることが尊いことなのだ、といったニュアンスとなる。
「不岐」は両者一体、「両道」は両者別物と微妙に異なるのだが、学校教育においては両方を共に頑張ることが好ましいのだと、ほぼ同じような意味で用いられている。
◆半々、五分五分ではない
文と武。両方を頑張るのはいいが、それは力の配分を半々にするということではないだろう。
今、野球の甲子園やインターハイが行われているが、ここに出てくるような生徒は、半々になんてやっていない。時間も努力もその大部分を「武」の方に振り向けている。
しかし、彼らも大会が終われば「文」の方にも力を振り向けるだろうし、引退すれば「文」がメインの生活になるかもしれない。
あるいはまた、「武」一辺倒の生活は高校生までで大学に入ったら「文」が中心の生活になるかもしれない。
文と武の両立とは、瞬間瞬間で見るのではなく、少し長めの時間軸の中で見て行かなければならない。
ある時間、ある期間をとらえた場合、極端な話、片一方がほぼゼロでいい。そのくらいやらないと「どちらも立たない」のである。
「本校の特徴は文武両道」。
あちこちで聞く。
それはいいが、どっちつかずの中途半端な「文武両道」になっているケースもしばしば見られる。
言ってみれば「なんちゃって文武両道」。
大変なことだが、ここからの脱出をはかりたいものだ。

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