「持論」という語について述べようと思うのだが、この話題、二度目である。
10年やっていれば、どうしたって繰り返しになる。
さて、今日のネットニュース。
広陵高校事件に関する見出しだけざざっと見てみた。
記事本文は関係ないので見出しだけ。
次の3本の記事見出しを見てほしい(太字は筆者による)
・倉田真由美氏、「日本はいじめを軽く扱いすぎている」 広陵高校を念頭か…Xで持論を連投
・「野球がうまければ何でも許されるのか」、元プロ選手が広陵高校「暴力事案」に持論…「勘違いが勘違いを生む」
・ひろゆき氏、広陵高校めぐる対応にまた持論 「イジメを見過ごした証拠がない限りは、罰を与えてはいけない」
持論ばやりである。
持論とは。
持論の「持」は「持ち物」の「持」であるから、その人のものでなくてはならない。
そして重要な点は、たった今思いついて述べたのではなく、表現等は多少異なるにしても常に主張している意見でなければならないことだ。
漫画家の倉田真由美氏は常日頃から「日本はいじめを軽く扱いすぎている」と述べておられ、そのことを記者や編集者が知っているなら「持論」でいいだろう。野球解説者の高木豊氏、実業家のひろゆき氏についても同様だ。
だが、想像するに、これは記者や編集者、つまり記事を発信する人たちの勘違いから来ているのではないか。
かねてよりの主張であれば持論でいいが、そうでなければ「私見」あたりがふさわしいだろう。実際そういう見出しもあった。
たまたま挙げた三例は、記事の発信者が持論の意味を取り違えているのだが、この語自体は正しい日本語だからまだいい。いただけないのは「自論」だ。これは「持論」の音である「ジロン」からの誤用であろう。国語辞書には無い言葉だ。
もっとも、皆が誤用するようになれば、いつか正しい日本語になる。「真逆」が「正反対」を駆逐したように、みんなで間違えればいいのだ。「号泣」なども本来は大声を出して泣くことだが今ではさめざめと泣いても「号泣」という見出しになる。「号泣」の「号」は、「怒号」や「号令」の「号」だから声を出した時だけ使えるんだよなどと言っても無駄である。
暇なのでネット記事の見出しに嚙みついてみた。

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