埼玉県公立高校入試は、令和9年度入試から大きく変わる。調査書の様式が見直され、学力検査にはマークシート方式が導入される。そして、全ての受検生に面接が課せられることになった。

 このうち、もっとも気になるのが全員面接である。
 この2~3か月、公立の塾説に出続けたが、聞きどころの一つは各校が面接をどうとらえ、どう扱おうとしているかだった。

 誤解のないように先に言っておくが、私は面接そのものは否定しない。人前で自分の考えを述べること、自分の中学校生活を振り返ること、将来について考えること、相手に伝わる言葉で話すこと。これらが大切な力であることに異論はない。
 これからの時代を生きる子供たちにとって、自己理解や自己表現の力はますます重要になるだろう。面接練習を通して、自分の考えを整理する経験にも一定の意味がある。そこは認めてよい。

 しかし、問題は別のところにある。

 それほど大切な力なら、高校に入ってからじっくり鍛えればよいのではないか。なぜ、それを高校入試の場で、全ての受検生に課さなければならないのか。ここは分けて考える必要がある。

◆面接の価値と、入試で課すことは別問題
 従来の埼玉県公立高校入試でも、各校の判断で面接を実施することはできた。つまり、制度上、面接を重視したい学校は、これまでも面接を課すことができたのである。
 ところが、実際には面接を実施する学校は少数派だった。しかも、近年は減少傾向にある。これは何を意味しているのか。
 少なくとも、多くの高校が、選抜資料としての面接にそれほど大きな価値を見出してこなかったということではないか。もし本当に面接が入学者選抜において極めて有効だと考えられていたなら、多くの学校がすでに実施していたはずである。

 もちろん、面接を実施している学校にはそれぞれの理由がある。学科の特色、学校の教育方針、求める生徒像との関係で、面接が必要だと判断している学校もあるだろう。それはそれでよい。学校ごとの判断として面接を課すことには意味がある。
 だが、それを全校一律、全受検生対象に広げるとなると話が違ってくる。各校の必要に応じて実施する面接と、県全体の制度として全員に課す面接は、性質がまったく異なる。

◆入試は教育活動ではなく、選抜事務である
 入試は教育活動ではない。入試は選抜事務である。
 この言い方には、反発を覚える方もいるかもしれない。入試も教育の一部ではないか、入試を通して生徒を育てるという考え方もあるのではないか、という意見もあるだろう。

 しかし、ここはあえてはっきりさせておきたい。入試の本来の役割は、限られた募集人員に対して、誰を入学させるかを決めることである。そこに教育的な意味を過剰に持ち込むと、制度の目的がぼやける。

 もちろん、入試が中学校教育や受験生の行動に影響を与えることは避けられない。だからこそ、入試制度は慎重に設計されなければならない。しかし、「教育的に大切だから入試で課す」という論理は危うい。

 教育的に大切なことは山ほどある。読書も大切である。探究活動も大切である。地域貢献も大切である。協働性も大切である。自己表現も大切である。では、大切なものはすべて入試で測るのか。そうではないはずだ。
 大切な力だからこそ、高校入学後に時間をかけて育てる。これが教育の本筋ではないか。

◆働き方改革のための制度変更ではないのか
 今回の入試改革では、調査書の記載内容が大きく見直される。部活動、資格、出欠、特記事項などの扱いが変わり、調査書はかなりスリムになる。
 要するに、少なくとも私には、改革の本丸はここにあるように見える。

 調査書作成にかかる中学校の先生方の事務負担は大きい。高校側も、膨大な調査書を読み込み、点数化し、確認する作業に相当な労力を費やしてきた。教員の働き方改革を考えたとき、ここにメスを入れようとするのは当然だ。部活の地域移行が進めば、子供たちの学校外での活動状況を中学校が把握しにくくなるという事情もあるだろう。従来通り細かく調査書に反映させようとすれば、結局、中学校が本人や保護者から聞き取りをしなければならない。だが、それでは負担軽減にならない
 さあ、どうする。

 と、ここで浮上したのがまさかの全校全員面接だ。
 部活動や資格取得などをまったく評価しないということになれば、選抜資料は学力検査と9教科の評定、つまり大きく見れば学力中心の入試となる。少なくとも、部活動や資格、生徒会活動などを選抜資料として明示的に扱う余地は大きく狭まる。
 部活をがんばったこと、生徒会や学級活動をがんばったこと、ボランティア活動をがんばったこと、資格をとったこと、今までは多少なりとも入試でプラス材料になったけれど、今後は一切関係ありませんでは通らないだろう。
 そこで、それらは面接でアピールしてもらいましょうということになった。そして、面接する方もされる方も「ぶっつけ」では大変なので、事前に自己評価資料というペーパーを提出してもらいましょう。

 ただ、そこに疑問、というか矛盾が生じる。
 調査書の記載内容を減らすことで教員の負担を軽くする。その一方、全受検生に自己評価資料を書かせ、面接を課す。中学校側の記載負担は軽くなるかもしれないが、受検生には新たに自己評価資料作成と面接準備の負担が生じる。高校側にも、全員面接を実施するための会場設定、面接官配置、評価の統一、時間管理という新たな業務が加わる。
 教員の働き方改革は重要であるが、その結果として、受検生に新たな負担が課されるのであれば、制度変更には皆が納得できる説明が必要であろう。

◆「教育的意義」で正当化しすぎてはいけない
 受検生の新たな負担について説明しなければならない。
 それが自己評価資料であり「マイボイス」である。自己評価資料により自分を見つめ直し、面接で自分の言葉で語る。「マイボイス」によって、自分の経験や考えを表現する。これは教育的に意義があることなのだとして、新たな入試制度を正当化する。

 むろん私とて、これらの教育的意義を理解しないわけではないし、否定するつもりもない。    
 しかし、それによって入試制度を正当化しようとするのはどうなのか。

◆すでに想定と異なる動きが
 塾説などを通じて各校の捉え方と対応を見ると、いくつかの特徴的な動きが見られる。

 一つは、面接が合否に与える影響を最小限にとどめ、学力検査重視の方向をさらに明確にしようという動きだ。いわゆる上位難関校はこの方向だ。これらの学校では極端な話、「マイボイス」の「マの字」も出てこない。面接対策にあまり時間をかけ過ぎないようにとまで言い切った学校もある。
 もう一つは、面接を「部活ガチ勢」の救済に用いようという動きだ。これまでは部活の成果は得点化されていた。しかし調査書に書いてないものを得点化することはできない。そこで部活の成果は自己評価資料に書かせ、それを面接で尋ね、面接の評価に反映させようとする。むろん面接の得点の割合は高めの設計になっている。

 面接やマイボイスの教育的意義を否定することはないが、「それで入試選抜はできんな」というのが現場の素直な反応ではないか。
  
◆生徒募集は経営問題
 繰り返すが、面接を否定しているのではない。自己表現の力を軽視しているのでもない。
 問うているのは、面接の教育的価値ではなく、入試制度として全校全員に課すことが本当に妥当なのかという点である。
 面接には意味がある。だが、意味があることと、全員に入試で課すべきことは同じではない。

 まだ一度も実施されていないうちから、このような否定的な意見を述べるのは気が引けるが、入試は教育論だけで設計してはならない。入試は事務であり、学校経営であり、公平性と実行可能性を最優先すべき制度である。