「老害」という言葉が世間に定着して久しい。
敬老の日は過ぎたが、老人にとってあまり良い響きを持たないこの言葉について考えてみる。
文字通り受け取れば「老人の害」である。ならば、若者による「若害」や、子供による「幼害」という言葉があってもよさそうなものだが、そんな言葉は聞かない。なぜ老いただけが「害」とまで言われなければならないのか。
結論から言えば、この言葉の本質は年齢そのものではなく「地位や権力を持つ者が、時代の変化を拒み、後継や組織の可能性を潰す構造」にあるからだ。
周囲を動かす決裁権や評価権を握りしめたまま、「昔はこうだった」と過去の成功体験を振りかざす。後進にポジションを譲らず、異論を排除し、変化を止めてしまう。一人の頑なな態度が組織や業界全体を沈没させるからこそ、人はそれを「害」と呼び忌み嫌うのだ。
そう考えると、日常の人間関係や家庭内で、単に頑固な高齢者に向かって「老害」のレッテルを貼るのは、明らかな言葉の濫用であり、個人の尊厳を傷つけるエイジズム(年齢差別)である。若い世代と意見が合わないのは、単なる価値観の違いやコミュニケーション不足であって、そこに「権力構造」がなければ害とまで呼ぶのは酷というものだ。
真に「老害」が発生し、そして退治されるべき主戦場は、やはり強力な権力が集中する政界や財界ということになる。
教育の現場に目を向けても、この違いは分かりやすい。公立学校では定年制という制度が機能しているため、特定の人物が数十年にわたってトップに君臨し続けることは仕組み上難しい。
一方で私立学校の場合は、経営と教育が一体化していることも多く、理事長や校長が長年その座に留まり、ガバナンスが形骸化すれば「変化を嫌うトップと衰退する組織」という構造が発生しやすくなる。
さて、ひるがえって自分自身のことである。
何を隠そう、書いている本人はすでに「後期高齢者」の領域に足を踏み入れている。年齢というスペックだけで見れば、いつでも「老害」を盛大にまき散らす資格は十分すぎるほど持っている。
おまけに、自分の過去にこだわり、新しいカタカナ語や流行に愚痴をこぼすという意味では、資質としても立派に「老害発生予備軍」の体質を備えている自覚はある。
しかし幸か不幸か、私にはしがみつくべき「地位」も「権力」もない。
権力がない以上、私がどれほど頑固になろうと、社会や組織を傾かせるほどの「構造的な害」をもたらすことはできない。せいぜい「近所のうるさいじいさん」「話の長い年寄り」として、周囲に適当にあしらわれるのが関の山である。
「老害」になれるほどの立場にないことを安堵すべきか、ちょっとした寂しさを覚えるべきかは分からない。ただ一つ確かなのは、権力の有無にかかわらず、自分の感覚が古びていないかを問い続ける謙虚さだけは、手放さずにいたいということだ。

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