子供の個性を伸ばすにはどうしたらいいですか? う~ん、そういう質問、私の守備範囲じゃないな。
教育学や心理学を研究している偉い先生に聞くか、そういう先生方が書かれた本を読んだほうが早い。
ただ、昔は先生をやっていたから、考えたことはある。
そこで、研究者ではないが、考えてきたことを書く。
◆個性を伸ばすと、自分から離れて行く
個性を伸ばすというのはお母さん、あなたとは違う人間を作ることですよ。
私が小中学生の頃はこんなじゃなかった。
それでいいんですよ。
自分と違う人間に育ってるということだからね。
いいぞ、その調子。
個性の「個」は、一人一人とか一つ一つという意味だ。
一人一人が、他とは異なる性質を持っている。それが「個性」だ。
あなたが、自分のコピーみたいな人間に育てたとしたら、「一人一人」に反するから、個性を奪っていることになる。
まあ、親子であるから遺伝子的に似てしまうことはあるだろう。
一番近くで、一番長く一緒にいるから、考え方や行動が似てしまうこともあるだろう。
だが、「個」としての性質を伸ばしていけば、いずれ、似ているようで別の人間になる。
それが成長というものだ。
個性を伸ばしたいなら、そして成長を願うなら、自分とは違うということを受け容れなければならない。
◆凡人と個性は両立する
突然ですがお母さん、あなたは凡人ですか?
私はどうやっても偉人や賢人や才人には分類できないから、紛れもない凡人だ。
平凡な仕事をし、平凡な暮しを営んでいるただの凡人だ。
ではこの私に個性はないのか。
いや、ある。
誰かのコピーでもなければ操り人形でもない、一個の独立した(individual)人間として個性(individuality)はある。
凡人と個性はちゃんと両立しているのだ。
もしかしてお母さん、あなたは個性というのを勝手に長所とか特徴とかに訳してませんか。
パーソナリティ、オリジナル、キャラクター、ユニーク。
個性という日本語の中に、そういう要素を全部ぶち込んじゃうと、人より優れてなきゃいけないとか、目立たないといけないとか、ちょっと変わっていなきゃいけないとか、話がそっちに向かってしまう。
でも、そういうのがなくても個性は成立する。
個性は、長所や特徴とは関係ない。
と、そこまで言ってしまうと言い過ぎかもしれないが、長所なんてものは所詮見方の問題だからね。
慎重だとほめてくれる人がいれば、臆病と馬鹿にする人もいる。
他人からどう見られるかなんてことは、どうでもいい話だ。
個性を、他人と競争するための武器と考えるのはやめましょう。
◆元先生的、個性の伸ばし方
個性を伸ばすには、まずは観察だ。
観察というのは、ただボケっと見るんじゃなく、客観的に注意深く見ることだね。
学校の理科の時間に習った。
感情は排除しないといけない。
これは意外と難しいことなんだが、努力して感情は押し殺そう。
正直言って、むかついたり、ガッカリしたりすることも多いのだが、ここが我慢のしどころだ。
そして、だんだん「この子は、こういう子なんだ」と、とりあえず認められるようになってくる。
先生としての指導が始まるのは、実はここからなんだが、先生なりたての頃は、思いっきり失敗してたね。
観察せずにいきなり指導に入っちゃった。
医者で言えば、検査もせずに手術しちゃうみたいなもので、救える命も救えない。どころか、殺してしまうような愚かしい行為。
だから、若いお父さんお母さん方が、観察すっ飛ばして指導に入ろうとするのはよく理解出来る。
だが、じっくり観察して、心が落ち着いてから指導でも遅くはない。
で、ここで一つ注意しておかなければならないのは、親は自分の責任をあまりにも強く感じてしまわないことだ。
つまり、この子がこうなったのは、育てた自分の責任だと自責の念にかられてしまうというやつ。
たしかに、自分らで生んで育てたんだから、原因や理由のかなりの部分が、自分らと関係しているんだが、それでは自分自身の観察になってしまうではないか。
反省会は後でいい。
観察して見えてきたものがあり、それらを冷静に受け止めることができたら、伸ばすために指導に入ろう。
3つに分ける。
1 このままやらせるもの
2 成り行き任せにするもの
3 直すもの
当然だが、直すのは後回しだ。これを最初に持ってくると本人への負荷がかかり過ぎる。
私はこれでさんざん失敗しているので、皆さんは注意してほしい。
本人が興味を持ち、好きでやっていることに対しては少しばかり負荷をかけてやってもいい。少し高めのハードルを設けてやってもいい。
すると不思議なもので、「直すもの」だったはずが、自然に直ってしまうこともある。そうやって荷物を軽くしてから直しに入るほうが楽だ。
以上。学問的裏付けのない凡人の戯言である。
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