大学卒業式での来賓祝辞をめぐるニュースがあった。
姫路獨協大学でのことだ。
埼玉県には独協埼玉中高がある。また、県内の高校から獨協大学や独協医科大学に進む生徒も多い。
よって獨協の名は馴染み深いものであるが、そんな埼玉県民からしても「姫路にもあったんかい」というほど知名度が低い大学である。
そんな姫路独協大学卒業式で、現職の姫路市長が来賓として招かれ祝辞を述べた。
卒業式で「三流大学」と発言、姫路市長「エール送るつもりだった」
普通、こうした式典に政治家を招くことは少なく、招いたとしてもその他大勢の扱いで挨拶まではさせないのだが、この大学は姫路市との協力で設立された経緯がある。
理事長の祝辞と姫路市長の祝辞はセットでなければならないという事情がある。
祝辞の全文を読んでみたいものだが、それは見つからなかった。
が、記事内容を読む限り、それほどの問題発言とは思えない。
「自らが通っていた医科大学が当時は新設校で、三流大学だと卒業式で恩師に言われたことを振り返った。そのうえで『私は母校を誇りに思い、恥じない生き方をしてきた。人として一流の生き方をしてください』などと述べたという」(新聞記事より)。
たしかに、決して一流とは言えない大学で三流大学という言葉を用いたのはまずかった。
自分も三流大学を出て医師となり市長となった。君たちも三流大学卒だが一流を目指して頑張れ。
そう、受け取れなくもない。
問題なのは、これを学生たちがどう受け止めたかであるが、たぶん来賓の話など聞いていない。
不快に感じた学生もいたかもしれないが、自分たちと関係ない人だし、まあいいか。
という程度だったと想像する。
姫路市では2人の副市長が任期途中で突然退任するなどゴタゴタが続いている。
市職員の中に、清元秀泰市長に対する反発もあるようだ。
そういう中で新聞は、混乱につながる新たなネタを追い求めていたのではないか。
さて、姫路市の話題からいったん離れて、式辞・祝辞について再び考えてみよう。
広くスピーチ全般と置き換えてもいい。
私が姫路市の一件から得た教訓は、「自分語りは危険だ」ということである。
スピーチの中に、自分の経験談や身の上話を盛り込むのはよくあることだ。
しかし、よほど注意しないと上から目線の自慢話になってしまう。
失敗談ならよさそうなものだが、人前で何かを話すような立場の人はそもそも成功者なのである。
だから、「こんな私でも」といくら謙遜しても、聞く側からすれば嫌味にしか聞こえず、馬鹿にされたと受け取る人も出てくる。
であるから、校長や先生方が生徒や保護者に話をする場合、エピソードとして取り上げるのは他人の話にしよう。
聞き手は、あなた自身に興味を持っているわけではないから、身の上話や体験談は聞きたくない。
もちろん話す方だって、自分アピールをしたいわけではないだろう。
伝えたいのは別のことだ。
だが、そこに自分語りが入ってしまうと大事なことが伝わらなくなる恐れがある。
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