「So ridiculous. Greta must work on her Anger Management problem, then go to a good old fashioned movie with a friend! Chill Greta, Chill!」
 訳すと。
 「アホくさ。グレタ、自分の怒りを制御することに取り組め。あと、友達と古い映画でも観に行くことだ。頭を冷やせグレタ、頭を」(by ドナルド・トランプ米大統領)
 スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさん(16)が米誌タイムの「パーソン・オブ・ザ・イヤー」(今年の人)に選ばれたことを受けてのトランプ大統領のTwitter。

 働きもない、学もない少女が世界を駆け巡って演説しまくっているのだから、背後に大人がいるわけだろうが、それが誰だか分からない。若さと無知につけこんで少女を操っているのは誰なのか。いかなる組織なのか。マスコミにはぜひ、そういうところも取材してもらいたい。

 さて、話は活動家ということである。
 個人的にはこの言葉にあまり良い印象はない。実践が伴わないというイメージ。ただ言うだけの人。
 おいおい、それってオマエのことだろう。
 そうなんだ。だから余計に嫌なんだ。

 活動家が教育を語っても何も変えられないが、教育者が活動すれば変えられる

 活動家の存在意義をまったく認めないわけではないが、たとえば環境問題一つを取っても、何人の活動家を生み出したところで、最終的には発明家や技術者や研究者を生み出さないかぎり具体的問題は解決しない。教育者の使命はそこにある。

 「劇団グレタ」のようなやり方は支持しないが、これによって環境問題に目覚める若者が出てくれば、それも良しである。むろん百歩か千歩譲っての話だが。
 ただ、目覚めた結果が活動家になろうでは環境問題の根本的解決にはならない。

 先日、数検1級に合格した小学4年生が、「将来は地球温暖化を止める発明をしたい」と言っていたが、私は、「そうだそうだ、その心意気だ。忘れんなよ」と心の中で喝采を送ったものだ。まだまだ子供だから、興味の対象はあっちへ行ったりこっちへ来たりで、定まるのはずっと先になるだろうが、「発明をしたい」がポイントである。その気持ちを大事に育ててあげることだ。

 私などは活動家をさらに遠くから眺めている評論家といった存在であるから、我ながら情けないのであるが、せめて教育者の皆さんの活動をほんの少しでも後押しできればいいなと思っている次第だ。