本日のお題は音読の効用ということだ。私は仕事で原稿を書くことが多いのだが、印刷物(ネットの場合もあるが)にする前に文字校正という作業がある。
 最初の校正を初校、初校で赤字修正を入れた部分が直っているかを確認するのを再校と呼ぶのは皆さんもご存知だろう。まあ、普通はここまでで終わりだが、ページ物だったり書籍だったりすると、三校、四校と続き、もうこれで最後だよということで念には念を入れて念校まで行う場合もある。
 で、もうこれで間違いなしとなったら校正終了だから校了。ゴメン、あと1文字直してよという場合、そのためにもう一度校正を出すのは手間だから、あとはこっち(印刷サイド)に任せてくれますかというのが責任校了で責了

 私がこの種の仕事に携わるようになったのは、30年ほど前のことで、当時は活版印刷などというものがまだ生き残っていた。職人さんが、手書き原稿(当時はパソコンなんてなかったし)を見ながら、1文字ずつ活字を拾っていく。
 そんなやり方だったから、当時よくあったのが、形が似た文字の取り違いだ。「僕たち恋人同士」が「僕たち変人同士」みたいなやつ。たしかに変わったカップルもいるけど。

 今は印刷の方法も変わったし、元原稿もパソコン打ちが普通だから、形が似た文字の取り違いはないが、代わって登場したのが同音異義語の間違いだ。いわゆる変換ミス。
 県内公立に進修館という高校があるが、普通に「しんしゅうかん」と打つと、「新習慣」と変換される。うん、それも悪くないな。マスク・手洗い・三密避けて新習慣を実践する高校。
 「〇〇学園」なんていうのも、下手したら「〇〇が食えん」となったりする。たしかにどうにも食えん学校もあるからな。

 おっと、いけない。いつもの悪いクセで本題からズレてしまった。

 音読である。
 最近、校正の際に、音読を用いている
 普通こういうのは黙読でやるものだ。
 
 元々、人と喋るのが嫌いなところへ持って来て、コロナの影響で人と会わないものだから、声を出すことがなくなった。
 このところ原稿書きが続いているので文字を書くことはあっても、言葉を発することがない。
 これはまずい。

 使わないものは衰えるのが道理で、このまま行くと喋れなくなってしまうのではないか
 1年以上前に、冗談半分で「ある日、口笛が吹けなくなったことに気づき愕然とする」という記事を書いたのだが、これがいまだに読まれている。「口笛が吹けなくなった」で検索すると上位に出てくるのが原因らしいが、このままだと、ある日、喋れなくなったことに気づき愕然とする事態になる恐れがある。

 まあ少なくとも、滑舌はものすごく悪くなるだろう。

 口笛問題は、毎日吹くことによってとりあえず克服した。
 では、滑舌問題は音読で克服できるであろう

 という次第で、小学生よろしく自分で書いた原稿を声に出して読んで校正しているのである。
 ボソボソ、ブツブツでは意味がないから、読んで聞かせるように、だ。こういうの朗読というのかもしれない。
 そしてこれが、すこぶるよろしい。

 滑舌が良くなった感はいまのところないが、声が出るようになったのは確かだ。
 先生やってたころは、若かったせいもあって、教室どころか体育館中に響くような声も出せたんだけどな。
 むろん、この年になってそこまでは望まないし、必要性もないが、命を守るためにも大声を出せたほうがいい

 よし、これからは大声を出すぞ。
 と、思ったが、よくよく考えてみると大声は新しい生活様式になじまない。
 出すべきか、出さざるべきか、難しいところだ。