「どうしてやらないんだ」「なんで出来ないんだ」。愚問と知りつつ、ついつい口にしてまうこの言葉。
 おそらく、いや、確実に、これを言った時点で己の感情をコントロールできていないのだ。
 いやしくも他人を指導したり、アドバイスの一つもしようと考えている人間が、怒りを制御できないようでは情けない。
 問い自体が愚かというより、問いを発する人間が愚かなのだ。
 その意味で愚問。

 「どうしてやらないんだ」「なんで出来ないんだ」の答えは、「それが実力だから」である。
 言われた方は、それなりの理屈を並べるだろうが、要は実力不足なのだ。

 スキルを持ち合わせていないのか。
 知識や経験が不足しているのか。
 体力・精神力が弱いのか。
 そもそもやる理由を見出せていないのか。
 これらのうちのいくつか、または全部が欠けているから、やらないし、出来ないのだ。

 だから、実力が無い者に向かって、「どうして」「なんで」と問うのは愚問である。

 問い詰めれば、どうしようもない屁理屈が返って来る。
 それをまた責める。
 どっちかがキレておしまい。
 これでは永久に課題解決には至らない。

 先生方は職業だから、一日に一回は「どうして」「なんで」と自身に問いかけていることだろう。
 生徒は「なんで出来ないんだ」
 そりゃあ、テメエの教え方がヘボだからに決まってるだろう。
 生徒に尋ねても答えなんて出ないよ。
 ということが分かっているから、自問自答する。
 まあ人間だから、時たまセーブが効かなくなることもあるかもしれないが、基本「どうして」「なんで」は自分自身に向ける。

 もし、このブログを小中高校生のお父さんやお母さんがお読みになっているとしたら、そういうわけなので、「どうしてやらないんだ」「なんで出来なんだ」の問いは、子供に向けるのではなく、まず自分自身に向けていただきたい。
 怒りの感情を排除し、素朴な疑問として、自分自身に問うて欲しい。

 繰り返すが、原因は実力不足である。
 どの部分が足りていないかは人それぞれである。
 その見極めがつけば、課題解決に大きく前進する。
 
 教育界だけでなくビジネスの世界でも、指導者や上司は「やらない」「出来ない」という負の部分にフォーカスし勝ちである。
 そこには、何とか出来るようになってもらいたいという願望があるだろうし、出来るようにしてやりたいという愛情もあるだろう。
 だが、往々にしてそれは裏目に出る。

 そりゃそうだ。
 わが身に置き換えてみたって、苦手なことや興味のないことばかり取り上げられて、「どうして」「なんで」と問い詰められたら、頭が変になるだろう。
 だから、実力不足が原因で「やらない」「出来ない」となっていることは一旦保留して(ペンディングして)、今すぐ出来ることを大量にやらせてみるのも一つの手である。
 ある程度実力を持ち合わせているから成果が出るのが早い。
 
 で、成果が出た頃合いを見計らって、「どうしてやったんだろう」「なんで出来たんだろう」と問うてみる。これは相手に直接言ってもいい言葉だ。
 答えは自分の中にあるから、見つけ出すのはそう難しい作業ではないだろう。
 そうした経験を通じて、「どうしてやらないんだ」「なんで出来ないんだ」を自分自身に向けられるようになったらしめたものだ。
 他人に投げかける言葉としては愚問だが、自分自身に向けられる言葉としてはこの上ない良問だ。