教育虐待。とても重たいテーマだ。
 長女が医者になることを強く望み、勉強だけでなく生活全般を支配し続けた母親。結局9年にも及ぶ浪人生活でもその夢は果たせず。しかし、なおも続く教育虐待とも言える母親の干渉に耐えられず、ついに長女は母親を殺害するに至ったという事件。
 今日のヤフーニュースでピックアップされたのは、その裁判に関するものだ。

 医学部受験で9年浪人 〝教育虐待〟の果てに… 母殺害の裁判で浮かび上がった親子の実態

 詳しくは記事をお読みいただきたいが、これはまあ極端なケースだろうと思う。
 が、これに近いこと、あるいは似たようなことが行われていないか。
 直接ではないにしろ、教育に関わっている者として一度は考えみる必要がありそうだ。

 親が子供の将来の幸せを願うのは当然だ。
 自分の失敗を子供には味合わせたくない。それも分かる。

 しかし、親が敷いたレールの先に必ず幸せがあるのか。
 それは分からない。
 その先に幸せがあるというのは親の想像でしかない。妄想かもしれない。

 自身が歩んだ道を辿らせようとする。
 自身が実現できなかった道を歩ませようとする。
 どちらにしても、子供は親とは別人格であることを強く意識しなければならない。

 〇〇大学に入ることは、あなたにとって幸せなのかもしれない。
 〇〇になることは、あなたにとって幸せなのかもしれない。
 だが、あなたが求めているのは子供の幸せではないのか。
 であれば、子供にとって一番の幸せは、自分で自分の人生を選択することである。
 なぜ、一番の幸せを与えようとしない。

 子供が幼いころは、日々の成長を心から喜べたはずだ。
 特に目標設定などしなかったろう。
 いついつまでにオムツが取れるように、いついつまでに歩けるように、いついつまでにお話が出来るように。
 そんな目標は立てなかったはずだ。
 ちょっと遅いかな、意外に早かったな。
 でもまあ、こんなものかと結果にはそれほどこだわらなかった。
 ただただ成長が嬉しかった。

 あのころの、日々のちょっとした成長を喜ぶ気持ちはどこへ行ってしまったのだ。

 子育てとは、子供の成長見守り、子供の成長を喜ぶ行為である。
 間違っても自身の果たせなかった夢を託す行為ではない。

 虐待の恐さは、その行為自体の恐さもさることながら、そうとは知らずその行為を犯している点にあるのだろう。
 自分の守備範囲ではないと自覚しているが、真剣に考えて行かなければならないと思っている。